第9話
試合前の準備は、いつも通りだった。
剣の確認。革帯の締め具合。
体の重心が今日どこに乗っているか。
脚の状態、肩の可動域。
一連の確認を終えて、ルッツは試合会場の端に立った。
観客席には、すでに人が集まっていた。
貴族の子女たちが色とりどりのドレスと制服を着て、階段席に並んでいる。
歓声と私語が混じり合って、会場全体が低くざわめいていた。
ルッツはその光景が、あまり好きではなかった。
見られることは構わない。戦うことは好きだ。
しかし「見世物」として見られる感覚が、どうにも性に合わなかった。
視線の中に品定めや野次馬根性を感じると、それだけで不快になる。
試合前の準備は、だから毎回、人から離れた場所でひっそりと行う。
観客席をひと通り流し見た。
端の方に、一人でいる人影があった。
一瞬で、誰かわかった。
ローゼンハイム伯爵令嬢。
廊下で道を開けなかった。
裏庭でフェンとリルに餌を与えた。
あれから十日、毎日昼休みに裏庭に来て、ジャーキーを持参してフェンとリルに与えていた。
フェンとリルがすっかり懐いており、リルなど昨日はリリスの膝の上で眠りかけていた。
その令嬢が今、手に何かを持っていた。
光る、棒。
青白い光を放つ棒を、二本。両手に一本ずつ。
周囲の観客は誰も持っていない。
令嬢は誰とも話さず、隣に人もおらず、ただ一人試合会場を向いて立っていた。
ルッツは視線を切った。
試合が始まった。
一回戦の相手は三年生の上位生徒だった。
剣筋は正直で、力がある。ただ、速さがない。三十秒で終わった。
二回戦は魔法剣士タイプの相手だった。
魔力を乗せた攻撃は厄介だが、魔力を乗せる一瞬のタイミングに隙がある。
そこを突いた。四十秒。
三回戦が始まる前に、ふと目がいった。
令嬢が、動いていた。
光る棒が揺れていた。
左右に、ゆっくりと、リズムに合わせるように。
手で何かを持って扇ぐように動いていた。
声は出ていない。歓声を上げているわけでもない。ただ、無言で、全力で、何かをしていた。
周囲の観客が彼女に気づき始めていた。
何をしているのかわからない、という顔をしている者が多かった。
しかし令嬢は意に介さず、前を向いていた。
(何を、している)
三回戦の相手が剣を構えた。
ルッツは相手に向き直った。
しかし、試合中に一度だけ、視線が流れた。
令嬢の光る棒が、こちらを向いて揺れていた。
その一瞬、ルッツの足が僅かにずれた。
相手の剣が掠った。
かすり傷にも満たない、布の擦れる程度の接触だったが――試合中に被弾したのは、ルッツにとって二年ぶりのことだった。
(……よそ見をした)
自分に激怒しながら、試合を締めた。
五十秒。今日一番時間がかかった。
決勝まで四試合、すべて制した。
優勝が決まった瞬間、観客席がどっと沸いた。
ルッツはその歓声をほとんど聞いていなかった。
片付けをしながら、視線だけを令嬢の方向へ向けた。
彼女はすでにグッズを仕舞い込んでいた。
無表情のまま、帰り支度をしていた。まるで最初から何もしていなかったかのように。
ルッツは会場を出た令嬢を追った。
「待て」
振り返った令嬢の顔に、驚きはなかった。少しだけ、間があった。
「……なぜ応援した」
「優勝すると思ったので」
「それだけか」
「それだけです」
令嬢はそれだけ言って、頭を下げ、廊下の角を曲がって消えた。
ルッツは廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。
足元で、フェンとリルが令嬢の消えた方向を見て尻尾を振っていた。
(……なぜ今日、フェンとリルを連れてきたんだ、俺は)
それも、答えが出なかった。




