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第7話



 学園に入って十日が過ぎたころ、リリスは「裏庭」の存在を知った。



 正確には、存在自体は知っていた。


入学時に配られた学園の見取り図に、「管理棟北側・立入禁止区域」と記されていた場所だ。


理由は書いていなかった。



 理由がわかったのは、偶然だった。



 講義の合間に人気のない廊下を歩いていたリリスの耳に、低い唸り声が届いた。獣の声。


しかし犬でも猫でもない、もっと深みのある、腹に響く音だった。



 足が止まった。



 前世の記憶の中に、「魔獣」という存在はない。


しかしこの世界で十六年生きてきた身体が、それを「危険なもの」として認識していた。


近づくな。それが本能の声だった。



 リリスは近づいた。



(なぜ近づいているのか、という合理的な説明は今のところできない。ただ、確認したかった)



 廊下の突き当たりに、半開きのまま放置された扉があった。


押し開けると、石畳の小路が奥へ続いている。


高い壁に囲まれた、中庭というより「隙間」と呼ぶべき細長い空間だった。



 そこにいた。



 二頭。



 漆黒の、大型の狼だった。


通常の狼より一回り大きく、毛並みが光を吸い込むように黒い。


瞳は深紅に近い赤褐色で、こちらをまっすぐ見据えていた。牙が、薄く覗いている。



 リリスは動かなかった。



 恐怖は、あった。背筋を冷たいものが走り、息が細くなった。


しかし足は動かない。


二頭の魔狼は唸りながら、しかし飛びかかってはこなかった。ただ、じっと見ている。



 その横に、人がいた。



 壁に背を預けて腕を組み、魔狼たちを眺めている。


深緑の制服。黒に近い髪。琥珀の瞳が、リリスに向いた。



 ルッツ・アードラーだった。



 その眼が「なぜここにいる」と言っていた。


声には出ていなかったが、明確にそう言っていた。



 リリスは視線を魔狼に戻した。


二頭は腹を低くして、まだ唸っている。


よく見ると、背骨の辺りに僅かな震えがある。


空腹の時の、あの独特の筋肉の強張りだ。


入学前のひどく腹が減った夜に似たような感覚があった記憶がある。



(お腹が空いているのか)



 リリスはバッグに手を入れた。



 バッグの内ポケットには、日本の商品が入っていることが多い。


今日持ち歩いていたのは、前日に日本のスーパーで購入した「特選ビーフジャーキー 無添加 人間用」だった。


コンビニに寄った時に見かけて、何となく買ってしまったものだ。


前世の習慣で、時々こういうものを持ち歩いてしまう。



 袋を開けた。



 乾燥した牛肉の香りが、細長い空間に広がった。



 二頭の魔狼の動きが、止まった。



 鼻が、ひくりと動いた。



 リリスはゆっくりと手を伸ばし、ジャーキーを一枚、地面に置いた。後退しながら、距離を取る。



 しばらく間があった。



 先に動いたのは、体格の大きい方だった。


慎重に、しかし確実に近づいてきて、地面のジャーキーに鼻先を近づける。嗅いだ。また嗅いだ。



 ぱくりと、食べた。



 咀嚼が止まった。



 次の瞬間、小さい方も走り寄ってきた。


リリスの手元を見上げて、尻尾が動いている。


わずかに、しかし確かに、振れている。



「……」



 ルッツが壁から離れた。



 リリスの横まで来て、魔狼たちを見下ろした。


その眼が、かつてないほど丸くなっていた。



「なんだ、それは」


「食べ物です」


「何の」


「牛の肉を乾燥させたものです。保存食の一種で」


「……俺が用意した獣肉を、こいつらは三日拒否していた」



 リリスは特に何も言わなかった。



「なぜお前が持っている」


「偶然です。時々こういうものを持ち歩くので」



 ルッツが黙った。



 大きい方の魔狼が、リリスの手にそっと鼻先を押し当ててきた。


もう一枚くれ、という意思表示だと理解した。リリスはジャーキーをもう一枚取り出し、差し出した。



 小さい方が嫉妬したように体当たりしてきた。


リリスはよろめきながら、もう一枚を小さい方に渡した。



(なかなか、力が強い)


「……フェンとリルだ」



 ルッツが言った。声が、さっきより僅かに低くなっていた。



「大きい方がフェン。小さい方がリル。二頭は兄弟だ」


「そうですか」


「なぜ怖がらない」



 リリスは少し考えた。



「お腹が空いているだけだと思ったので」



 ルッツが、また黙った。



 フェンがリリスの膝に頭を乗せてきた。


百キロ以上はあるだろう魔狼が、まるで子犬のように甘えている。


リリスは少し困ったが、頭を軽く撫でた。



 リルが嫉妬してルッツの脚に体当たりした。


ルッツが無言でリルの頭を撫でた。


その手が、慣れていた。大切にしているのだとわかった。



「……明日もここに来るか」



 ルッツが言った。


リリスに向かって、というより独り言に近い声色だった。



「来るかもしれません。この子たちが気に入ったので」


「フェンとリルが人間に懐くのは珍しい」


「そうですか」


「……ジャーキーを買い占められか? 二頭いるから減りが早い」


「了解しました」



 そのまま、二人は並んで魔狼たちを眺めた。


特に何も言わなかった。ただ、静かな時間が流れた。



 リリスは内心では全力で騒いでいたが、外面はきわめて平静だった。



(この子達にに名前があった。しかも可愛い名前だ。「学園の狂犬」が魔狼に可愛い名前をつけているという事実を、今すぐ誰かに言いたい。言える相手がいないのが問題だ)


(そして推しが「二頭いるから減りが早い」と言った。これは魔狼の食事の心配だ。心配している。心配できる人間だ。これは加点だ。大きな加点だ)


(推し確定。本日付けで推し確定とします)



 空は高く、秋の日差しが裏庭を斜めに照らしていた。



 二頭の魔狼が、初めて穏やかな顔をして丸くなった。



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