第40話
あれから三年が経った。
ローデン旧領は、今では「アードラー辺境伯領ローデン分地」と呼ばれるようになっていた。
正式な領主としての辞令が下り、ルッツが辺境伯を名乗ることになった。
村の人口は、三年間で一割増えた。
外に出ていた若者が戻ってきたのが半分、新たに移住してきた家族が半分だ。
仕事があり、収入があり、子どもを育てられる場所があれば、人は来る。
藍染め工房は、今では職人が十五名に増えた 。
マルガが総括の立場になり、グレーテが工房長として取り仕切っている。
リリスはその日も、書類室にいた。
机の上には、今年の収支報告書と、来年の計画書が並んでいる。
数字は良い。
目標の八割は達成している。
残り二割は、来年以降に回せる。
ドアが開く。
「リリス」
ルッツだった。
フェンとリルが先に入ってきて、リリスの足元で転がりはじめる。
「何かありましたか」
「いや。そろそろ昼だ」
「もう少しで書き終わります」
「今日は早く終わらせろ」
「なぜですか」
「村の東側の畑で、春の麦が穂を出し始めた。カスパーが見せたいと言っている」
「それは良かった。ではあと少しで――」
「今すぐ来い」
「書類が」
「書類は逃げない」
リリスは少しの間、ルッツを見つめた。
「……今日のルッツ様は、強引ですね」
「いつもこうだ」
「そうでしたか?」
「そうだ」
リリスはため息をつくが、しかし口の端が上がるのを止められなかった。
書類に挟み紙をして、立ち上がる。
「わかりました」
二人と二頭で、館を出る。
春の風が、村を渡っていた。
麦畑の緑が風に揺れ、藍草の畑が日差しを受けて青紫に光っている。
遠くでグレーテが村人と話している声が聞こえ、子どもたちが畦道を走っているのが見える。
目的地に着くとカスパー村長が待っていた。
「お嬢様、旦那様、こちらです」
案内された場所に、麦の穂があった。
まだ小さな、しかし確かな穂。
「三年前は、ここに何も育てられなかった。水がなくて、土が痩せていて。今年は、こんなに育ちました」
「良かったです」
「お嬢様のおかげです」
「皆さんが育てたものです」
「でも、仕組みを作ってくださったのはお嬢様です」
リリスは麦の穂を一本、そっと手で触れた。
細く、しかし確かに重さがある。
(育った)
数字にすれば、目標値のいくつかに相当する。計画書の一行が達成されたのだ。
でも今は、数字より前に、別の感覚が込み上げる。
温かい。
「……良かった」
小さく、声に出ていた。
ルッツが隣で黙って立っていた。
フェンが麦穂の匂いを嗅いで、くしゃみをしリルが驚いてフェンを睨んだ。
カスパーが笑い、村人が笑う。
リリスも、笑った。
空が広かった。
青く、どこまでも。
前世の記憶の中にあった空と、今目の前にある空が、同じ色に見えた。
名前のある場所で、名前のある人たちと、名前のある日々を。
(これが、私の一番良いケースだった)
最良ケースは、想定していなかった。
でも、こうなった。
ルッツが、リリスの手を静かに握る。
麦畑の中で、二人と二頭が、並んで春の空を見上げた。
風が、また渡っていった。




