第4話
十四歳の夏は、やたらと暑かった。
使用人区画の部屋は日当たりが悪く、昼間でも薄暗い。
それでも暑さだけは容赦なく忍び込んでくる。
リリスは日本の古本屋で買ったノートを膝に広げ、帳簿の写しを手元で見比べながら、鉛筆を走らせていた。
経営学の入門書には「コスト分析の基本」という章があった。
収入と支出を種別ごとに整理し、どこに無駄があるかを可視化する手法だ。
これを実家の帳簿に当てはめると、面白いことがわかった。
カトレアが管理している「家計費」の項目が、異様に膨らんでいる。
特に、「雑費」と「交際費」。
内訳の説明がなく、領収書の類もない。
しかし金額は月を追うごとに増えている。
直近の三ヶ月分だけで、家の年間収入の一割を超えていた。
(これは横領だ)
はっきりと、そう判断した。
カトレアが浪費しているのか、誰かに送金しているのか、あるいはもっと別の用途があるのかはわからない。
しかし数字が嘘をついていないことだけは確かだった。
リリスは証拠になりそうな数字を、丹念に写し取った。
日付、金額、項目名。
合計との差額。
ページを重ねるごとに、裏帳簿は厚みを増していった。
昼下がり、廊下から声が聞こえてきた。
「お姉様って、ずるいわ」
マリアの声だった。
父に向かって話しているようだった。
「お姉様はいつも自分のお部屋に籠もって、私と遊んでくれないの。冷たいのよ。私のことが嫌いなのよ。お父様、お姉様を叱ってちょうだい」
「……リリスを呼びなさい」
父の声。
抑揚がない、空っぽな声。
リリスは帳簿を閉じ、棚の奥に仕舞った。
立ち上がり、埃が目立ち始めたスカートを一度手で払う。
廊下に出ると、父がカトレアと並んで立っていた。マリアが父の袖を掴んでいる。
「マリアが寂しがっている。もっと妹と時間を過ごすように」
「……承知しました」
「それだけか」
「それだけです」
父の眉が、わずかに寄った。
以前の父なら、リリスの目を見て「何かあったか」と聞いてくれた。
今の父は、カトレアの方を向いた。
カトレアが微笑んで「マリアもわかってくれるわよ」と言うと、父の表情が緩んだ。
リリスは頭を下げ、自室に戻った。
扉を閉めて、棚から帳簿を出した。
開いたページ、最後の行に書いた。
小さく、しかしはっきりと。
『父の判断能力、喪失の可能性あり。要因:カトレアのスキルが「魅了」系である可能性。根拠:①本人の意思決定が常にカトレア依存 ②カトレアと接触後に態度が変化するパターン ③使用人への影響も確認』
鉛筆を置いた。
怒りは、ない。
悲しみも、とうに通り過ぎた。
ただ、静かな決意だけがあった。
(学園に入れば、この家の外に出られる。外に出れば、働ける。働けば、自立できる)
十六歳で学園に入学する。それまで二年。
リリスはもう一度帳簿を開き、鉛筆を走らせ始めた。
ランプの明かりが、文字を照らした。
屋敷の中は、静かだった。




