第36話
ゲスナーが動いたのは、公証人の書類を送ってから十日程経ってからだった。
武装した男が五名、夜に東の山へ向かうのを村人が目撃すると、翌朝には山の入口に立てられていた境界杭が三本、引き抜かれていた。
ルッツがそれを確認した時の眼は、静かで、冷たかった。
「行く」
「待ってください」
「これ以上待つ理由がない。向こうが動いた」
「記録を」
「取った」
ルッツが淡々と言言い放つ。
「境界杭の状態の記録も、村人の証言の記録も、昨夜のうちに取った。書類はお前の机の上にある」
リリスは一瞬止まった。
「……いつ」
「夜中に目が覚めた時、これが来ると思った。だから準備した」
(準備した)
リリスが教えたことを、ルッツが実行している。
「王都への報告書も書いておいた。確認してくれ」
「……確認します」
「俺はフェンとリルを連れて、山へ行く。向こうが五名なら、数の問題はない」
「ゲスナー子爵の私兵なら、正当防衛の範囲内です」
「わかっている」
「怪我はしないでください」
ルッツが少し止まり。
「……その心配をするか」
「します」
「なぜ」
「大切な人が怪我をしたら、困るので」
ルッツが、リリスを見て、何かを言いかけ、やめた。
代わりに、手を伸ばす。
リリスの頭の上に、一瞬だけ手を置くと、重さがあり温かかった。
「待っていてくれ」
「はい」
ルッツが出ていきフェンとリルが続く。
リリスは机の前に座り書類を確認しる。
ルッツが書いた報告書は、事実だけが簡潔に記されていた。
日付、場所、被害の内容、証人の名前。
(学んでくれたのかな)
裏庭での会話を思い出した。
「記録は次の計画の素材だ」と言ったのは、リリスだ。
それをルッツは、こういう形で使ってくれた。
夜が深くなっていく。
リリスは王都への追加書類を書き始める。
ゲスナーの一連の妨害行為の記録、法的根拠の整理、今後の裁定を求める請求書。
書きながら、耳を澄ませると遠くから、フェンの咆哮が一度だけ聞こえた気がした。
遠吠えも、何も聞こえず静寂だけが支配する。
そんな中、唐突に玄関の扉が開いた。
「終わった」
ルッツだった。
傷はなく、服に汚れはあるが、血ではない。
フェンとリルがすり抜けるように先に入ってきた。
「全員を確保した。怪我人はいない。縛って村の入口に置いてきた。王都の衛兵が来るまで、村人に見張りを頼んだ」
「証言は取りましたか」
「クラウスに頼んだ。書類にまとめてある」
「ありがとうございます」
「報告書は書けたか」
「はい。明朝、王都に送ります」
「わかった」
ルッツが椅子に座りフェンが隣に転がった。
しばらく、二人は黙っていた。
「……疲れましたか」
「いや」
「何か食べますか」
「もう夜中だろう」
「非常用の食料がありますよ?以前お渡しした物なら」
ルッツが少しの間を置いてから。
「……食べる」
リリスが棚から二本取り出して、一本を渡すとルッツが受け取りゆっくりと食べはじめる。
「これは本当に、不思議な食べ物だな」
「……美味しいですか」
「不思議な味だが、悪くない」
沈黙が戻ってくる。
今度は、穏やかな沈黙だった。
「怖かったか」
ルッツが尋ねると。
「……少し」
「次からは、一人でいるな」
「次はそうします」
「次でなく、いつも」
「……わかりました」
フェンが大きな欠伸をしリルが丸くなった。
窓の外に、夜明けの気配が見え始める。
リリスは書類を脇に置いた。
ルッツはまだそこにいた。
二人と二頭が、静かに夜明けを待った。




