第31話
ゲスナー子爵が「挨拶」に来たのは、リリスたちが着任してしばらくしてからだった。
馬車が三台、従者が十名。
それだけで、この訪問が「挨拶」ではないことはわかる。
ゲスナー子爵は五十代の男性だ。
太り気味で、しかし目が細く鋭い。
派手な服を着ていたが、その下に小さな計算が見える。
「ようこそいらっしゃいました。アードラー卿」
対面は館の客間で行われた。
リリスが一歩下がった位置に立っているとゲスナーの視線が、一瞬リリスを確認する、大したものではない、と判断するかのように。
その判断が、リリスには好都合だった。
「この度はご赴任、ご苦労様です。さぞご不便でしょう。何かご入用のものがあれば、我が領から提供できますよ」
「ありがとうございます」
ルッツが表情を変えず短く答えた。
「実は、この際ですので、いくつかお話があってまいりました。隣同士、うまくやっていきたいと思っておりますので」
「どのようなお話ですか」
「水路の件と、東の山の件です。実は、以前から境界が曖昧なところがありまして。我々の調べでは、今の水路はもともとゲスナー領の土地に設けたもので、山もこちらの管轄だということが明らかになっておりまして」
「調べ、というのは」
「我々が独自に調査した結果です。公文書の確認も取っております」
リリスは静かに手元のノートを開いた。
「少し、よろしいですか」
ゲスナーが初めて、リリスの方をしっかりと見た。
「こちらは?」
「リリス・フォン・ローゼンハイムと申します。アードラー卿の婚約者で、この領地の経営を担当しております。先日、王都の公文書館に問い合わせを出しました。三日前に回答が届いておりまして」
ノートではなく、折り畳んだ書類を開いた。
「ローデン男爵領、現アードラー管轄地に関する水路権の記録です。当該水路は七十年前の辞令により、ローデン男爵領の農業用水として設けられたものと記録されています。ゲスナー子爵領への転用は、正式な手続きを経ていないと記載されています」
ゲスナーの顔が、僅かに固まった。
「山の帰属については、百二十年前の測量図が残っており、東側の山林はローデン男爵領に属すると明記されています。こちらも写しを取り寄せました」
リリスは書類をテーブルに置いた。
「以上が、王都の公文書に基づく記録です。ご確認いただけますか」
ゲスナーが書類を手に取り、しばらく、黙って見ていた。
「……これは」
「王都の公文書館からの公式回答です。改ざんはされていません。原本の参照番号も記してあります」
ゲスナーが顔を上げると、その目の色が変わっていた。
先ほどまでの細い計算から、別の何かに変わっていた。
「……なるほど。準備がよろしいですな」
「来客がある前に準備をするのは、当然のことだと思っています」
ゲスナーが少しの間、リリスを見る。
それからルッツを見た。それから、また笑みを作った。
「では、改めて正式な話し合いの場を設けましょうか。本日は、まずご挨拶ということで」
「ありがとうございます。正式な交渉の場には、書類を持参していただくようお願いいたします」
ゲスナーが立ち上がり、一礼して出ていくのに従者たちが続く。
馬車が遠ざかる音を聞きながらルッツが口を開いた。
「三日で公文書を揃えたのか」
「着任翌日に問い合わせを出しました。王都の記録局は、料金を前払いすると優先対応してもらえます」
「料金を前払い」
「書類仕事は、お金を惜しまない方が早く終わります」
ルッツが短く、低く笑う。
「お前はいつも、最初の一手が速い」
「準備が好きなので」
「それは知っている」
フェンが客間に入ってきて、ルッツの脚に体当たりし、リルがリリスの足元に来て、見上げる。
「とりあえず、今日は勝った」
「勝った、というより、牽制しただけです。次に何を仕掛けてくるかの方が問題です」
「そうだな」
「ゲスナー子爵は諦めていません。あの目は、まだ計算していました」
「俺も、そう読んだ」
二人は少しの間、同じ方向を向いていた。
その沈黙が、奇妙に心地よかった。




