第20話
イザベラが本格的に動き始めたのは、リリスが公爵家に来て二週間目のことだった。
最初は小さなことだった。
リリスが整理した書類室の台帳が、翌朝に順番が崩れていた。
誰かが夜の間に棚を漁った跡だ。
次に、リリスが使っている客間に「別の客が来るから部屋を移ってほしい」という伝言が来た。
使用人を通じて。
しかし確認すると、そのような客の予定はなかった。
リリスは淡々と、それぞれに対処した。
台帳は再度整理し、今度は背表紙に通し番号を振った。
伝言については「別の客の予定を確認してから対応します」と返し、公爵に直接確認を取った。
公爵は「そんな話は聞いていない」と言い、伝言の出所を調べさせた。
結果は出なかった。
しかし、誰が動かしたかは、おおよそわかった。
三週目に入ると、標的が変わった。
若い女官の一人が、リリスの前でわかりやすく態度を変えた。
給仕の際に音を立てる、廊下ですれ違う時に避けない、問いかけに遅く返答する。
それ自体は些細なことだが、複数の女官が同時に始めたとなれば話が違う。
(組織的だな)
リリスはそれを観察しながら、対策を立てた。
怒らない。反応しない。ただし、状況を記録する。
同時に、別の動きをした。
女官たちのうち、イザベラと直接接点がなさそうな二人に、意図的に話しかけた。
書類室の整理を手伝ってもらえないか、という口実で。
本来は一人で十分だが、あえて二人を誘った。
作業をしながら会話をする。
仕事の話から、屋敷のことへ。屋敷のことから、人間関係へ。
女官たちは警戒しながらも、話し好きな性質があった。
一時間後、リリスはイザベラがルッツと幼馴染みである事実、ルッツへの好意を周囲が認識している事実、そして「イザベラ様が仰ったことは聞いておいた方がいい」という暗黙の空気が女官たちの間にある事実を把握した。
(なるほど)
構造が見えた。
イザベラは悪意を持っているわけではない。
ただ、ルッツの隣にいる女が気に入らない。
その感情が、周囲への働きかけという形で出ている。
対処は、感情的な対立ではなく、実力の積み上げだ。
リリスは書類室を出て、資材室に向かった。
昨日に引き続き、棚の再配置を進める。
夕方、ルッツが訓練から戻る時間に合わせて、廊下に出た。
「少し聞いてもいいか」
ルッツが言った。
こちらから声をかけるより先に、向こうが先だった。
「何でしょう」
「資材室の棚を動かしたか」
「はい。動線を改善しました。必要な資材を取り出すのに、一分かかっていたものが十五秒になります」
「……ゲオルクが喜んでいた」
「良かったです」
「イザベラのことは」
唐突だった。リリスは一拍置いた。
「何でしょう」
「嫌がらせを受けていると聞いた」
「大したことではありません」
「大したことでなくても、俺に言え」
少し強い声だった。しかし怒っているのではない。ただ、言い切った。
リリスはルッツを見た。
「ルッツ様が動くと、イザベラに余計な誤解を与えます」
「誤解?」
「貴方が私を庇ったと受け取れば、イザベラの感情がさらに動きます。感情が動けば行動も動く。私が実力で黙らせた方が、早く落ち着きます」
「……お前は、何でも一人でやろうとするな」
低い声だった。
「一人でできることは、一人でやる方が効率的です」
「効率の問題ではない」
「では、何の問題ですか」
ルッツが少し黙った。フェンが横で大きな欠伸をした。
「……俺が、気になるという問題だ」
聞こえるか聞こえないかの声だった。
リリスはしばらくの間、動けなかった。
その間を誤魔化すように、リリスは頷いた。
「わかりました。何かあれば報告します」
「そうしろ」
ルッツが先に歩き始めた。フェンとリルが続く。
リリスはその背中を見送りながら、内心の嵐を必死で押さえた。
(「俺が、気になる」)
(気になる、と言った)
(これは、どういう意味の「気になる」なのか。心配という意味か。それとも――)
(……落ち着け。データが不足している。判断するには情報が足りない)
(でも推しが私のことを気にしていると言った。これは事実だ。記録に残す価値がある)
廊下の窓から、夕日が差し込んでいた。
石畳が赤く染まっていた。




