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第2話



 あれから三年が過ぎた。



 リリスは十三歳になっていた。



 ローゼンハイム伯爵家での暮らしは、静かに、しかし確実に悪化していた。


最初の一年は、まだ形ばかりの食事が届いていた。


次の一年で、部屋が使用人用の区画に移された。


家庭教師が打ち切られたのは、十二歳の春だった。



 理由は何もなかった。


ただカトレアが「家計が苦しくて」と父に告げ、父が頷いた。それだけだ。



 父が変わったのは、カトレアが来てから間もなくのことだった。


もともと実直で穏やかな人だったはずの父が、今では判断を求める視線をいつもカトレアへ向ける。


食卓でリリスが何かを言っても、父の目は隣の女を探す。


まるで自分の頭で考えることをやめてしまったかのように。



 リリスにはその理由が、まだわからなかった。



 ただ、何かがおかしい、とは思っていた。



 その夜、食事が来なかった。



 夕刻になっても、夜になっても、誰も部屋に来なかった。


昼に渡されたパンは、すでに食べてしまっていた。


空腹は、じわじわと腹の底を締め付ける種類のものだった。



 リリスは膝を抱えて、固い寝台の上に座っていた。



 蝋燭の明かりが一本だけ。窓の外は漆黒だった。



 寒い。



 眠ろうとしても眠れなかった。


腹が鳴るたびに、空腹が意識を引っ張った。身体が重く、頭がぼんやりした。



 こういう時、リリスはいつも「あの夢」を思い出した。


都会の光と、賑やかな声と、美味しそうな匂い。


前世の記憶、とはまだ認識していなかった。


ただ、どうしても思い出してしまうのだった。



 定食屋の、カウンター席。



 ガラス張りのショーケースに並んだメニュー表。


「本日の定食 鯖の味噌煮 六百八十円」


女将さんが「はいよー」と配膳する、白いご飯と赤い味噌汁の湯気。



(……食べたい)



 強く、思った。



 死ぬ前に一度でいいから、あのご飯が食べたい。



 温かい、あのご飯が。



 その瞬間、部屋の空気が変わった。



 正確には、変わった、という言葉では足りない。


何かが「開いた」のだ。


部屋の隅の、何もないはずの壁際に、木製の扉が現れた。


古びた引き手と、丸い真鍮のノブ。


どこにでもある、普通の扉。



 リリスは呆然と見つめた。



 三秒後、立ち上がっていた。



 寝台から降り、裸足のまま石床を踏んで近づく。


手を伸ばす。ノブは冷たく、しかし確かに実体があった。



 引いた。



 扉が開いた向こうは、廊下でも庭でもなかった。



 細い路地。石畳ではなく、コンクリートの床。


頭上に提灯と看板。「定食・山田屋」。


ガラス戸の向こうに暖色の光が溢れていた。


換気扇が回る音、食器の触れ合う音、テレビの音声。



 目が、しばたたいた。



(……あ)



 身体が、記憶した。



(そうだ。私は、ここを知っている)



 会社帰りに毎週寄った店。


カウンター六席だけの小さな定食屋。


女将の三枝子さんが一人で切り盛りしていた。


値段が安くて、料理が美味しくて、テレビの音が賑やかで、疲れた夜にそこにいるだけで少し楽になれた。



(私は、ここに来たことがある。前世で)



 記憶が、堰を切ったように流れ込んできた。



 日本人の女性として生まれた前世。


OLとして働いた年月。


オタクとして推しに捧げた休日。


質素に倹約して、貯めていたお金。


若くして病気になって――そして、死んだ。



 使う前に、全部使う前に。



(……そうか。そういうことだったのか)



 泣かなかった。



 不思議なことに、涙は出なかった。


ただ「ああ、そうか」という、腑に落ちる感覚だけがあった。


二つの人生が一つに繋がって、自分が何者かがようやくわかった気がした。



 ガラス戸を開いて、中に入った。



「あれ、いらっしゃい」



 三枝子さんが振り返った。


白い割烹着姿。目の細い、六十手前くらいの女性。


リリスのことを覚えているかどうか、あるいはここが「記憶の中の店」なのか「本物の店」なのか、今はどうでもよかった。



 カウンターの椅子に座った。



「何にしますか?」


「……鯖の味噌煮定食を、お願いします」


「はいよ」



 しばらくして、盆が出てきた。



 白いご飯。赤い味噌汁。鯖の味噌煮。小鉢の付け合わせに、ほうれん草のおひたし。



 湯気が、立ち上っていた。



 リリスは両手を合わせた。



「いただきます」



 一口食べた瞬間、胸の奥で何かが緩んだ。


米の甘さと、鯖の脂の旨みと、味噌の深い香りが舌の上で溶けた。


涙は出なかった。


ただ、肩の力が、何年分かまとめて抜けた気がした。



 食べ終わった後、お会計の段になって初めて気づいた。



「……日本円、いるんだ」



 財布がない。異世界の通貨しかない。



(つまり、この扉を使うには日本円が必要、ということか)



 リリスは静かに現実を整理した。



 泣かなかった。怒らなかった。


代わりに、頭の中で計算を始めた。



(換金できるものがあれば、日本円が手に入る。手に入れば、また来られる)



 三枝子さんに事情を話し、「次回必ず払います」と告げると、女性は「いいよいいよ」と手を振った。



 扉をくぐって部屋に戻る。扉は音もなく消えた。



 石床は冷たく、部屋は暗く、腹はまだ少し減っていた。


しかしリリスの目は、さっきまでとは少し違う光を帯びていた。



(生き延びるための手段が、できた)



 考えることが、あった。



 それだけで十分だった。



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