第18話
イザベラ・フォン・クライスが最初に現れたのは、リリスが公爵家に来て三日目のことだった。
正確には、イザベラはアードラー家の客間を訪ねてきたのではない。
ルッツに用があって屋敷を訪れたのだ。
しかし、廊下でリリスと鉢合わせした。
一瞬の、沈黙があった。
イザベラは年齢的にはルッツと同じ十八歳のはずだが、纏う空気が違った。
金髪を高く結い上げ、淡い紫のドレスを着ている。
姿勢が完璧で、所作が洗練されている。
クライス侯爵家の令嬢、という事実が全身から滲み出ていた。
「……あなたが、ローゼンハイムの」
声は丁寧だったが、眼が違った。
上から下まで、一秒で採点するような視線だった。
「はい。リリス・フォン・ローゼンハイムです」
「こちらへいらしたのは昨日? 一昨日?」
「四日前になります」
「そう」
それだけ言って、イザベラは廊下を歩き始めた。
すれ違いざま、ごく小さく言った。
「没落寸前の伯爵家の娘が、公爵家に転がり込む。ずいぶんと、大胆なことをなさるのね」
聞こえるか聞こえないかの声量だった。
使用人がいなければ、言っていないと言い張れる程度の。
リリスは振り返らなかった。
廊下を歩き続けながら、内心で整理した。
(イザベラ・クライス。ルッツに用があって、公爵家に顔を出せる立場にいる。そしてリリスの存在を「脅威」と認識している)
(なぜ脅威と感じるか。それはつまり、イザベラがルッツを……)
リリスは思考を一度止めた。
(そこまでは、今は考えない。現状把握が先ね)
書類室に入って、作業の続きを始めた。
積み上げた台帳の三分の一を整理し終えたところで、ふと気づいた。窓の外から、声が聞こえている。
「……アードラー卿。あの方は、いつまでこちらに?」
イザベラだった。
「用が済んだら出ていくだろう。俺が決めることでもない」
「でも、公爵家の評判もあるでしょう? ローゼンハイム家はカトレア夫人の件で今や疑惑の家です。関わりを持つことが――」
「評判より筋が大事だ」
短く、ルッツが遮った。
「リリスは証拠を揃えて、正当に訴えた。評判を心配するなら、証拠なく人を疑う方が恥ずかしい」
沈黙があった。
「……アードラー卿は、あの方のことを」
「何が聞きたい」
「いいえ……なんでもありません」
足音が遠ざかった。
リリスは鉛筆を持つ手を止めて、窓の外を一度だけ見た。
(「証拠なく人を疑う方が恥ずかしい」)
ルッツが、そう言った。
リリスは少しの間、その言葉の重さを測った。
それから鉛筆を走らせた。
台帳の整理を続けた。しかし今度は、文字が少しだけ丁寧になった。




