第17話
アードラー公爵家の屋敷は、ローゼンハイム家の三倍はあった。
玄関の天井だけで、リリスがかつて使っていた使用人部屋よりも高い。
石造りの廊下は磨き上げられ、足音が小さく響く。
調度品はどれも質実剛健で、華美ではないが確かな格を持っている。
武門の公爵家、という言葉の意味が、空気そのものから伝わってきた。
リリスが案内された客間は、南向きで日当たりが良かった。
寝台はローゼンハイム家の使用人部屋のものより三倍は厚く、シーツは糊がきいて清潔で、枕には羽が詰まっていた。
昨夜はあまりに疲れていて、横になった瞬間に意識が落ちた。
目が覚めた時、窓の外が明るかった。
しばらく、天井を見ていた。
(……ここが、当面の居場所か)
感慨はなかった。ただ、状況を整理していた。
卒業パーティの夜から一夜明けた。
カトレアは宴席の後に衛兵に身柄を預けられ、スキル鑑定が行われることになった。
父はそのまま公爵家の医師に診てもらうことになった。
マリアとエミリオの婚約については、王家が判断する。
リリス自身の立場は、今のところ「アードラー卿の保護下にある客人」だ。
正式な婚約の話は、まだされていない。
リリスは起き上がり、持参した小さなバッグを開けた。
裏帳簿と、日本で買ったノート数冊と、着替えが一組。
それだけが、今の自分の全財産に近かった。
洗面を済ませて、廊下に出た。
使用人が気配に気づいて近づいてきた。三十代後半の、落ち着いた物腰の女性だった。
「お目覚めですか、ローゼンハイム様。朝食のご用意ができております」
「ありがとうございます。食堂はどちらでしょう」
「ご案内いたします」
廊下を歩きながら、リリスは屋敷の構造を目に焼き付けた。
玄関ホールの位置、厨房へ続く通路、書類室らしき扉の場所。
習慣だった。
どんな場所でも、まず全体像を把握する。
食堂は広かった。長いテーブルに、すでに何人かが座っていた。
一番奥にいたのが、アードラー公爵だった。
六十手前の男性。白髪が目立つが、背筋が真っすぐで肩幅が広い。
眼光が鋭く、顔の彫りが深い。
ルッツの眼の形は、この人から来ているとすぐにわかった。
その隣に、ルッツがいた。
視線が合った。ルッツは何も言わず、顎で「座れ」という動作をした。
(……まあ、そういう人だったな)
リリスは公爵の向かいに当たる席に座った。
適切な位置だと判断した。遠すぎず、近すぎない。
「ローゼンハイム嬢」
公爵が口を開いた。声は低く、しかし穏やかだった。
「昨夜はよく眠れたか」
「おかげさまで。ご配慮に感謝します」
「正式な話は後日になるが、しばらくここにいるといい。ルッツから事情は聞いた」
「……ご迷惑をおかけします」
「迷惑などと思っていない」
公爵は短く言って、パンを取った。
それ以上の説明も慰めもなかった。
リリスはその簡潔さを、好ましいと思った。
食事が始まった。食堂には他に、ルッツの長兄ゲオルクと次兄カールがいた。
ゲオルクは長男らしい安定感があり、カールは人当たりが柔らかい。
どちらもルッツより話しかけやすい空気を持っていたが、リリスは必要以上のことは言わなかった。
ただ、食事の途中でカールが言った。
「ルッツから聞いたよ、ローゼンハイム嬢。帳簿の話。三年分、一人でつけ続けていたんだって?」
「記録の習慣があったものですから」
「あの量を記録の習慣って言えるのは、本物だけだよ」
カールが笑いルッツは何も言わなかった。
しかし、手元のカップを持ち直した。その動作が、わずかに遅かった。
リリスはそれを、視野の端で確認した。
食事の後、公爵に書類室を案内された。
「領地の事務書類がある。もし時間があれば、整理を頼めるか。人手が足りていなくてな」
それだけ言って、公爵は去った。
リリスは書類室に残り、棚に積まれた書類の背表紙を確認した。
年号と領地名が書かれている。整理はされていない。
いくつかは重複があり、いくつかは欠番がある。
(……一週間あれば、基本的な整理はできる……かな?)
リリスは袖をまくった。
これが、居場所を作る第一歩だった。




