第16話
扉が開いた先に立っていたのは、ルッツだった。
フェンとリルを連れていた。
漆黒の魔狼が二頭、ルッツの両脇に並んで広間に入ってきた。
三百人近い人間が、全員静まり返った。
魔狼の威圧感と、ルッツの存在感が合わさって、広間の空気を一変させた。
ルッツは迷わず歩いた。まっすぐ、リリスの方向へ。
「……アードラー卿」
エミリオが声を出した。
「なぜここに」
「卒業パーティに参加している。問題があるか」
「フェンとリルを連れてくるとは聞いていない」
「こいつらの行先は俺が決める」
ルッツはそのままリリスの隣まで来て、立った。
フェンとリルがリリスの脇に収まった。
リルがリリスの手に鼻先を押し当てた。
「婚約破棄の発表を聞いた」
ルッツがエミリオに向かって言った。
「婚約を解消した令嬢は、今夜から自由な身ということだな」
「……そうだが、それが何の関係がある」
「関係がある。俺が次の婚約を申し込む権利が生まれたからだ」
広間が、また静まった。
「ローゼンハイム嬢」
ルッツがリリスを向いた。
その眼が、まっすぐリリスを見ていた。
いつものように、脅威の判定をする眼ではなかった。
何か別の、見慣れない光があった。
「俺と、アードラー家に来い」
「……」
「正式な婚約の申し込みは、後日改めて行う。今夜は保護として申し出る。異存があるなら言え」
リリスは一拍だけ、考えた。
(最良ケースを、想定していなかった)
(でも)
「……ありがとうございます」
リリスは静かに、ルッツの隣に並んだ。
エミリオが何かを言おうとした。
その前に、リリスはバッグから書類を取り出した。
「殿下。一点だけ、発表させてください」
「なんだ」
「ローゼンハイム伯爵家の財政に関する記録です。三年分の帳簿と、それに付随する証拠書類です。正式な公証人のスタンプが入っています」
カトレアの顔が変わった。
「この記録には、後妻カトレアによる家計費の横領、及び第五王子殿下への無許可の接触行為が記されています。なお、カトレアが保有するスキルが無自覚の魅了である可能性が高く、長期にわたる他者支配が継続していた可能性があります」
「……な」
「父は現在、長期的なスキルの影響下にある可能性があります。適切な医療的措置と、スキル鑑定をお願いしたいと思います」
広間が、しんと静まった。
カトレアが立ち上がった。
「でたらめを言わないで! 私はそんなスキルなど持っていない!」
「スキル鑑定を受けていただければ、確認できます」
「あなたは私を陥れようとして――」
「帳簿の数字は陥れようとはしません」
リリスは静かに言った。
「数字は嘘をつきません。ご確認ください」
ローゼンハイム伯爵が、カトレアの袖を掴んだ。その手が、震えていた。
「……カトレア、これは……」
「お父様」と、リリスは言った。
父が顔を上げた。
久しぶりに、リリスの目を見た。
焦点が定まっていない。しかし、確かに見た。
「どうかお体を大切に」
それだけ言った。
リリスはルッツの方を向いた。
「参りましょう」
「ああ」
二人と二頭は、広間を歩いた。三百人の視線の中を、まっすぐに。
扉を出た瞬間、広間が再びざわめきに包まれた。
リリスは前を向いたまま歩いた。
ルッツが横に並んでいた。
夜の廊下は、しんと静かだった。
石畳に四つ分の足音と、二頭の足音が刻まれた。
「……ありがとうございました」
リリスが言った。声が、少しだけ揺れた。
「ずっと一人で抱えていたのか」
ルッツが言った。
問いかけというより、確認するような声だった。
リリスは答えなかった。
ただ、手が僅かに震えていた。
ルッツは何も言わなかった。
ただ、歩くのを少し緩めて、リリスに合わせた。
フェンが、リリスの手に鼻先を当てた。温かかった。
廊下の窓から、夜空が見えた。星が出ていた。
リリスは、それをまっすぐ見上げた。




