第12話
マリアが学園に姿を現したのは、入学から二ヶ月後だった。
リリスは廊下でその背中を見かけた時、一秒で状況を理解した。
(来た)
義妹のマリアは、ローゼンハイム家の令嬢として学園の見学行事に参加していた。
正式入学は来年だが、上の学年への「ご挨拶」という名目で年に一度、中等部の令嬢が上級学園を訪問する機会がある。
問題は、マリアが誰と一緒にいるかだった。
エミリオ・ヴァルト・ライヒス。
第五王子。リリスの婚約者だ。
エミリオは案内役の立場でマリアに学園を紹介していたが、その距離感がすでに「案内役」の適切な距離を逸していた。
身体が近い。視線が甘い。
リリスは廊下の柱の陰から、その光景を十秒ほど観察した。
(予定通りかな)
エミリオとリリスの婚約は、家同士の政略だった。
リリスはその婚約を特段歓迎していなかったし、エミリオもリリスのことを「正論ばかり言う面白みのない女」と思っていることは、態度からだいたいわかっていた。
カトレアが策を巡らせていることも、以前からの裏帳簿に記録してある。
マリアをエミリオに近づけ、婚約を乗っ取り、自分たちが公爵家の恩恵にあずかる算段だ。
(やらせておけばいい。私にとっても、望ましい展開だ)
婚約が破棄されれば、ローゼンハイム家との関係が切れる。
切れれば、自分の身の振り方を自分で決める自由が生まれる。
リリスは踵を返した。
廊下を歩きながら、内心で整理をした。
(問題は、エミリオがカトレアのスキルの影響下にある可能性だ。カトレアの魅了は半径どこまで届くのか、接触頻度と効果の相関はどうか、まだデータが足りない)
(今すぐ手を打つ必要はない。ただし最悪ケースに備えたバッファは積んでおく)
少しだけ、ルッツの言葉が頭に浮かんだ。
(最悪ケースへのバッファ率は、過去データから)
知らないうちに、語彙が混ざり始めていた。
廊下の角を曲がったところで、いきなり声をかけられた。
「リリス!」
マリアだった。エミリオを少し後ろに置いて、こちらへ走ってきた。
「久しぶりね! お姉様ったら、全然連絡をくれないんだもの。もう!」
「……久しぶり、マリア」
「ねえ、この学園って素敵よね。私、来年が楽しみになってきたわ。ねえエミリオ様も同じ気持ちでしょう?」
マリアがエミリオを振り返った。エミリオが微笑んだ。
その笑みが、リリスへ向かなかった。
「マリア嬢の言う通りですよ。……リリス」
「殿下」
「久しぶりだな。元気そうで何より」
「ありがとうございます。殿下もお変わりなく」
会話として、完璧に機能しない。
互いに完璧に礼儀正しく、しかし情が一切ない。
リリスとエミリオはそういう関係だった。
エミリオの視線が、リリスを測っていた。
何かを期待している眼だと、リリスにはわかった。
マリアに近づいていることへの反応を待っている。嫉妬を期待している。
リリスは何も言わなかった。
「では、私はこれで。講義がありますので」
「あら、そうなの」とマリアが言ったあと「あとで一緒にお茶しましょうよ」
「今日は予定があります」
リリスは頭を下げ、その場を離れた。
背後でマリアが何かを言い、エミリオが笑う声がした。
リリスは前を向いたまま歩いた。
感情は、ない。ただ、頭の中で計算が続いていた。
(エミリオはマリアに完全に向いている。カトレアのスキルの影響がある可能性は高い。ただし本人の性質として、リリスより扱いやすい相手を好む傾向はもともとあった。スキルと本性が合致した結果とも言える)
(対応策として必要な証拠を揃え、適切なタイミングで提出する。今は動かない)
裏帳簿に、今日の観察事項を追記する必要があった。
ただ、廊下を歩きながら、リリスは一つだけ余計なことを考えた。
(エミリオが自分から婚約を解消してくれれば一番楽なのだが。きっかけさえあれば)
きっかけは、おそらく向こうから来る。
来るまで、待つ。




