第1話
ローゼンハイム伯爵家の屋敷には、かつて芍薬の香りが満ちていた。
母が丹精を込めて育てた庭の花々は、春になると壁一面に咲き誇り、客人が訪ねるたびに「まるで絵画のよう」と賞賛された。
リリス・フォン・ローゼンハイムは物心ついたころから、その香りの中で育った。
朝の光の中で母と並んで花壇の水やりをした記憶は、今でも輪郭が鮮明だ。
母の手は細くて白くて、しかし意外なほど力強かった。
今、その庭は誰も手入れをしていない。
冬の名残が漂う三月の空の下、枯れた茎だけが土の上に突き立っている。
薔薇の棘だけが無意味に空へ向かって伸びていた。
リリスは自室の窓から、その光景をぼんやりと眺めていた。
十歳。母が逝って、半年が過ぎていた。
「……」
指の間で、刺繍枠を転がす。
母の形見だ。直径十センチほどの木製の輪で、布を張ってステッチを施すための道具だった。
母はこれを使って、リリスの服の胸元に小鳥の刺繍を入れてくれたことがある。
不意に、頭の奥でちかりと光る何かがあった。
都会の、夜。ネオンサインの赤と青。人混みの熱気と、誰かの笑い声と、耳の奥に流れ込んでくる音楽――歌詞が日本語で、意味がわかる。
「好きな人に届けたいんだ、この気持ちを」
アイドルが歌う、キラキラした場所の映像。スマートフォンの画面を必死で撮影している自分の手。
それは夢だろうか。妄想だろうか。
リリスは幼い頃から、眠りにつく寸前に、この世界とはまったく違う光景が脳裏に浮かぶことがあった。
最初はひどく恐ろしかった。でも何度も繰り返すうちに、それが「もう一人の自分」の記憶のようなものだと理解し始めていた。
もう一人の自分は、「リリス」ではなかった。
別の名前で、別の国で、別の人生を歩んでいた。
でも、その人も誰かを「好き」だった。応援していた。全力で、楽しんでいた。
(……妄想にしては、やけに鮮明だな)
刺繍枠を握り直す。外から、廊下を走る軽い足音が近づいてきた。
ドアが乱暴に開いた。ノックはない。
「お姉様! お姉様のお部屋にある人形、私に頂戴!」
マリアだった。義妹、というより「父が後妻に連れてきた子」だ。
茶色の巻き毛をした七歳の少女は、目を輝かせてリリスの部屋へ入り込んできた。後ろには、彼女の母であるカトレアが立っている。
カトレアは美しい女性だった。亜麻色の髪、整った顔立ち、柔らかな物腰。笑顔を絶やさず、決して声を荒げない。
誰が見ても「良き継母」の絵から切り抜いてきたような女だった。
ただ、リリスにはずっと気になっていることがあった。
カトレアの眼の奥が、笑っていない。
「マリア、いきなり入ってはいけないと言っていたでしょう」
カトレアは柔らかく窘めた。
しかしその声には咎める気配がまるでなかった。
「でもお母様、お姉様のお部屋のお人形、すごく可愛いんだもの。私の方が上手に可愛がってあげられるわ。お姉様はどうせ人形で遊ばないし」
マリアの視線が、棚の上の人形へ向いた。陶器で作られた小さな人形。
母がリリスに贈ってくれた、最後の贈り物だった。
リリスは刺繍枠を膝に置き、立ち上がった。
「……どうぞ」
「えっ」
マリアが目を丸くした。カトレアも、わずかに眉を上げた。
リリスは棚から人形を取り、マリアへ差し出した。感情は顔に出さなかった。
心の中は、とても静かだった。
怒りも悲しみも、すでに使い切った後みたいに、何もなかった。
「大切にしてください」
「わあ! ありがとう、お姉様!」
マリアは人形を抱えて、廊下を駆けていった。
カトレアが「ほら、ちゃんとお礼を言いなさい」と後を追う。
二人の背中が廊下の角に消えるまで、リリスは立ったまま見送った。
扉が閉まった後も、しばらく動かなかった。
窓の外で、枯れた薔薇の茎が風に揺れていた。
リリスは窓際の椅子に戻り、刺繍枠だけを指の中に残して、また庭を眺めた。
(お母様)
声には出さなかった。
(私、ここからどうやって出ていけばいい)
答えは返ってこない。
風だけが、ガラス窓を撫でていった。




