舞踏会で失禁した令嬢が、なんとかなって王子に婚約される話~お漏らしは、もうしませんから!~
王都の学園の研究室で、私はひとり黙々と作業していた。
「やっと完成した……!」
ここ数か月の成果、整列した1ダースの丸薬を眺めて思わず頬が緩む。
私、ルーシーは王都から離れたところの、伯爵家の娘として育った。
住んでいたのは自然豊かな土地で、動物や植物と触れ合うのが好きだった。
けれども外に出るたびにひどく体調を崩してしまって、母は病弱な私を心配してあまり外に出させたがらなかった。
ある日家で本を読んでいると、たまたま私に似た症状が載っていて、この体調不良が猫や馬などの動物と触れ合うことで起こることに気が付いた。
その日から原因究明と治療に精を出すようになり、15歳になる年に、研究のために王都の学園に通うことにした。
それから二年が経って、大変な苦労もあったのだが、運良く有効な成分を発見できた。
今は実用のための薬を製作しているところだ。
そんなふうに研究も佳境なのだが、今夜は宮廷舞踏会に行く予定があった。
それまでに少しでも開発を進めておきたいと考えていて……
(そう、舞踏会!)
部屋の置き時計を見ると、15時を回っていた。
そろそろ時間だ。ドレスの飾り付けもしなくてはいけない。
私は急ぎ足で研究室を出て、準備のために学園寮の自室へ向かった。
「間に合った……」
夜になって、なんとか準備を終わらせ、学園から舞踏会へ向かう乗合馬車の元へ行くと、同級生のマリィアがいた。
「ルーシー、ごきげんよう。ずいぶんギリギリに来たのね?」
「ちょっと研究に熱が入っちゃって」
マリィアに詰められて、私は愛想笑いで返した。
マリィアは王都で生まれ育った公爵令嬢で、田舎から来て右も左もわからなかった私に、何かと世話を焼いてくれる大切な親友だ。面倒見がいいなと思う。
舞踏会なども、彼女と一緒のものを選んで参加することが多い。
飾り付けた巻き毛の金髪に白のドレスが、街灯の照らされた月夜に輝いていて、高潔な雰囲気がある。
マリィアは続ける。
「まったく、今日は特別な舞踏会だっていうのに。ルーシーっていつもそう、社交より研究ばっかり」
「ちゃんと来たでしょう?」
「はいはい、じゃあお互い良い相手でも見つけましょう」
「うん。あと、宮廷のお菓子も楽しみだよね」
「……あのさ、わかってる? ちゃんと王子にアタックするのよ」
そう言って、マリィアは何やら呆れた顔を向けてくる。
マリィアもいつものお茶会では幸せそうにお菓子を食べているくせに、話に乗ってこないなんて。
ただ、確かに今日は特別な舞踏会だった。
学園を飛び級首席で卒業したというこの国の第二王子が、婚約者を求めて舞踏会に参加するというのだ。
そのために、妃殿下の見定めた、この国で選りすぐりのうら若き令嬢たちに招待状が届けられたという。
(それでも、私には関係ない話なんだろうけど)
ダンスは先生に褒められるけれど、肝心の殿方との会話はあまり弾まず苦手意識がある。王子様狙いバリバリの令嬢方に勝てる気がしない。
両親は口うるさく言わないが、実家の跡継ぎのためにも婿が必要なのはわかっている。だけど、あまりうまくいっていなかった。
若干気が滅入りつつも、数十分も走ると馬車は止まって、目的地に着いたようだった。
馬車を降りると私はホッと一息を吐いて、建物を見上げた。
豪奢な宮廷は夜月に照らされていて、漏れ出す暖かな明かりと集まった人々のざわめきが、今日が特別な日なのだと感じさせる。
煌びやかで賑やかな雰囲気に、先ほどまでの漠然とした不安など忘れ、否応なしにワクワクさせられた。
自分の靴やドレスが乱れていないか確認する。
新品のパンプスに、宝石を散りばめた濃紺のイブニングドレス。
「うん、大丈夫」
現地で居合わせた両親と合流して、宮廷の中へと歩みを進めていく。
◆
宮廷のリビングルームで、スカー第二王子とその母である妃殿下はやや離れて座っていた。
「なにも、すぐに結婚相手を探さなくても良くないか?」
王子は、今夜舞踏会に参加する予定の令嬢の肖像画と名前、家の情報などが書かれた資料を高速で捲り暗記しながら、妃殿下にそう切り出した。
「あなた、何もしなければ一生結婚しようとしないでしょう。この機会に決めてしまいなさい」
そう言って妃殿下は優雅に紅茶を飲み始める。
「そうは言っても相手が――」
王子の資料を捲る手がとある令嬢のページで止まる。
「――これは、ルーシー・モーレル嬢。なるほど」
何かに得心がいったらしい王子は、まるで興味を失ったかのように資料を徐にまとめて置き、部屋を発った。
◆
華やかに飾られシャンデリアに照らされた舞踏室には、色とりどりのドレスを着た令嬢と、燕尾服の紳士達が集まっている。
上質な衣服とその立ち居振る舞いからして、誰もが卓越した貴族なのは一目瞭然だ。洗練された宮廷舞踏会の雰囲気にやや飲まれそうになる。
盛大なセレモニーの後、ダンスが始まった。
楽しみだった軽食エリアに向かったとき、声をかけられる。
「あら、ルーシーじゃない。根暗で汚らしいアンタを呼ぶなんて妃殿下も慈悲深いこと」
私が目を向けると、にたついて見てくる令嬢が一人。ヴェラ嬢だ。
自分が一番目立っていたいかのように派手な赤のドレスを身に着けて、堂々とこちらを見下してくる。
同じ医学部の同級生だが、彼女は私をひどく厭う。
それほどの領地を持っていない公爵家の娘だから、家柄は下でも有力な土地を持つ私の家を疎んでいるのかもしれない。
教室では取り巻きと共に度々嫌がらせをしてくる。私の母親譲りのアッシュグレーの髪も、まるで埃を被ったみたいね、と馬鹿にして笑ってくる。毎日奇麗に手入れしているのに、嫌になる。
「それじゃ、舞踏会を楽しみましょ」
そう言って彼女は、テーブルに用意されていたレモネードの入ったグラスを差し出してきた。
飲み物に罪はない。私がため息をついてそれを飲み干すと、彼女は随分と上機嫌になって、見繕っていたらしい男の元へ去っていくのだった。
その後つまんでみたお菓子は、大して味がしなかった。
気を取り直して舞踏室に戻ると、なんだか急に尿意を催してきた。
たしかに今日は急いでいたからお手洗いに行く暇がなかったけれど、それでも唐突な尿意に焦る。
これだけの人数が集まる舞踏会なのだ。会場は広く、トイレルームが遠いうえに混雑する。ドレスも着ているから、侍女に手伝ってもらわなくては難しく、時間がかかる。
お手洗いを探し視線を泳がせていると、一人の男が近づいてくるのが見えた。
奇麗な黒髪に、黒の燕尾服には金刺繡が入っている。歩き姿は華麗で、聡明さと剛健さを同時に感じさせた。
あの圧倒的オーラは――スカー第二王子だ。
「ルーシー嬢、僕と踊っていただけませんか?」
手を差し伸べた王子は、アメジスト色の美麗な瞳でこちらを見つめ、ふっと微笑んでくる。
(え、私? ほら、周りにはもっと素晴らしい令嬢方が……)
そう思って周りを見渡すと、幾人もの令嬢が恨めしそうにこちらを見てくるのが視界に入って、すかさず目を逸らした。
心の声が聞こえたのか知らないが、王子は話し始めた。
「君は、何かを探している様子だっただろう?」
そのまま、王子が近づいて耳打ちしてくる。
「僕に視線を向けてくるお嬢様方ばかりで多少気疲れしてしまってね。別の何かに夢中な君が美しいと思った」
それで、踊ってくれるかい? と優しく微笑む。
甘い声で囁かれて思わず耳を抑えたくなってしまったが、ぐっとこらえる。
女の敵だ。女たらしだ。
思わず熱を帯びてしまった顔を冷ますように一つ息を吐いて、王子に向き直り冷静に考える。
この舞踏会の主役である第二王子にダンスの誘いを受けてしまった。
夜会には参加できたものの一度も王子にダンスを誘われない令嬢など、ごまんといるだろう。
ここで断っては大きなチャンスを逸してしまうに違いないし、面目が立たない。
それに、私の身に着けている濃紺のドレスに散りばめられた宝石も、今日この日のために何日もかけてあしらえたのだ。
私は返事をする。
「ええ、喜んで」
そうしてエスコートを受け、音楽が始まった。
王子のダンスは素晴らしかった。
私がダンスを踊れると見るや、実力を十分出せるようにさりげなくエスコートしてくれる。
関わればかかわるほど完璧に見える王子が、なぜ私を誘ったのかさらに疑念が深まった。
「どうして殿下は私をご存じでいらしたのですか?」
つい聞いてみると、王子はこんなところでする話ではないかもしれないが、と少し目を伏せた。
「実は、貴女の名前だけは前から知っていた。論文を読んだんだ」
続けて、王子が家の事情を語る。
王子の妹である、普段わがままを言わないまだ幼い王女が猫を欲しがって、とても可愛がっていたが、次第に王女が体調を崩して、泣く泣く手放してしまったという。
「学園の論文はすべて目を通しているのだが、貴女の研究は一目で別格だと分かった。どんな方が書いているんだろう、と思ったが、まさかこんな可憐なご令嬢だったとは驚きだ」
王子はそう言って表情をやわらげた。
私が私のために夢中でやっていた研究が、誰かの役に立つ。そうなればいいと薄ぼんやりは思っていたが、具体的な話を聞いて、ついと意欲がわく。
なんだか急に王子が身近な存在になったような気がして、自然と笑顔があふれてくる。
「必ず、姫様を救える薬に仕上げて見せます!」
ダンスは次第に熱を帯び、息の合ったステップで周りを感嘆させる。
そして曲も終わり際、最後の最後。私は尿意を我慢していたことを思い出す。
激しいステップについていけず、躓き、倒れそうになって――
王子に腰を支えられた瞬間、私は失禁した。
頭が真っ白になった。
最も注目を集めてしまっていたタイミングでの出来事。
会場がざわついている。呆然とした私は、侍女に案内されるままトイレルームへと連れられていく。
侍女の後ろ姿をぼんやりと追いながら、その瞬間の王子の、驚愕したような表情だけがフラッシュバックし続けた。
トイレルームで残りの尿を出したあと、案内された医務室で着替えさせられ、ようやく心が落ち着いてきたとき、王子が部屋に入ってきた。
私は即座に立ち上がり、大きく頭を下げる。
「本当に申し訳ありませんでした。殿下の舞踏会で、大変な、そ……粗相を」
言葉の途中で起こってしまった事実と改めて向き合うと、胸が詰まって、それ以上の言葉を発することができなかった。
「ルーシー嬢、ここで休んだら、今日はもう帰ってくれていい。……後日、君の元へ向かおう」
「はい……」
どこか淡々と話した王子は、そのまま退室してしまった。
ほどなく、両親の住むタウンハウスに帰った私は、まるで悪い夢のようだったこの日の出来事をぼーっとベッドの上で考えていた。
家族にも騒動は伝わっていた。
それでも落ち込んで帰ったところを両親から怒られるということはなく、逆に優しく出迎えられてしまったので、却っていたたまれなくなってしまった。
これからどうしよう。
社交界では、王子の面前で情けなくお漏らしした女だとすぐに知れ渡るだろう。
そうなればもう立場はなくなるし、学園にだっていられないかもしれない。
王子との約束も果たせない――
『必ず、姫様を救える薬に仕上げて見せます!』
――浮かれていた自分を思い出し、自己嫌悪に陥る。
明日のことも全くわからない。
考えがまとまらないまま眠りについた。
次の朝。身支度をして、まるでいつも通りの朝食を家族と過ごした。
舞踏会の翌日は縁のあった殿方が来訪し、家族も交えてより交流を深めるのが習わしとなっている。
けれどもそれは、大失敗した私には関係のない話。
自由になってしまった時間をリビングルームで過ごしながら、思考はもっぱらこれからのことに没頭していた。
風評を忍んで学園に通い続けるべきか? あるいは田舎の実家に帰ってしまったほうが、これ以上悪評を広めずに済むだろうか――
堂々巡りしてしまっては良くない。
とにかく研究に没頭して忘れようと、私は学園へ向かった。
研究室に入ると、衝撃の光景が広がっていた。
部屋は泥棒でも入ったかのように荒らされて、書類があたり一面に散らばっていた。
事態に気づいた私は、真っ先に奥の机へ向かって歩く。
そこには昨日完成させたはずの丸薬が、ぐちゃぐちゃにつぶされていた。
「そんな……」
これではもう使い物にならない。
数か月の成果が、努力が無駄になった。
かっと目頭が熱くなって、呼吸が荒くなってくる。
それでも、唇をきゅっと結んで、一度大きく深呼吸をして、心を落ち着かせる。
すべて私が悪いのだ。ギリギリでも最後にはうまくいくと思い込んでいた。考えが甘かった。
私は、散らばった書類を整理し始める。
このまま荷物をまとめて実家に帰ろう。
そのときだった。
――バタン!
扉の大きな音が鳴って、勢いよく部屋に入ってきたのは、マリィアだった。部屋を一瞥して、叫ぶ。
「誰がやったのよ、こんなこと!」
ヴェラ令嬢の顔が頭に浮かぶが、頭を振って答える。
「いいの、どのみち学園に居場所なんてない」
そう言って荷物の整理を再開する。
「学園を辞めるなんてダメだわ、ルーシー!」
「本当はここにいたいけれど、もう噂は広まっているでしょうし、学園の評判を落としてしまうから」
「でも……!」
「頭でっかちな私に、社交界での厳しさを教えてくれたのはあなたでしょう?」
突き放すようにそう言うと、マリィアはキッとこちらを睨みつける。
これでいい。私と仲良くしていたらマリィアの評判も落ちてしまう。
マリィアが呆れて退出しようとしたとき、ドアの奥から新たな人影が二人現れた。
それはスカー第二王子と、ヴェラ令嬢だった。
ヴェラ嬢は勝ち誇った顔でルーシーを煽る。
「あら、ルーシーにお似合いのひどい部屋ね。私は今日第二王子にお誘いいただいて、ここまで来たのよ」
マリィアが思わず何が言いかけたとき――
「ああ、そうだな。助かったよ、ヴェラ嬢」
王子が冷たく言い放って、滔々と続けた。
「端的に言う。今回の事件の犯人はヴェラ嬢だ。君の飲み物に利尿薬を混ぜていたようだ。会場から見つかったのと同じ薬剤が、ヴェラ嬢のドレスから見つかった。ヴェラ嬢の友人らの証言もある。証拠は十分だ。相応の償いを受けることになるだろう」
「あなた、謀ったわね⁉」
「連れて行ってくれ」
王子が指を鳴らすと、どこからか現れた衛兵がヴェラ嬢を連れて外に出て言った。
静かになった研究室で、王子はルーシーに近寄りそっと抱きしめた。
「遅くなって済まなかった」
私は王子の腕の中で、何か言おうとして、口をパクパクさせることしかできなかった。
「ルーシー嬢、愛している。君の聡明さも、純粋さも、美しい髪色も。あの日の小水でさえ愛おしいと思った。君が好きなんだ。僕と婚約してほしい」
王子がそう言うと、マリィアは「ひゃああっ」と声を上げてどこかへ行ってしまった。きっとこの出来事を吹聴して回る気だろう。
私が困っていると、王子は体をゆっくりと離す。なんだか、少し寂しいような気持ちになる。
「返事は急がなくていい。明日、宮廷のお茶会に招待しよう。歓待させてほしい。きっと、妹も喜ぶはずだ」
そうして、王子は私を家に送ってくれ、両親に挨拶をして帰っていったのだった。
宮廷のお茶会はつつがなく行われ、王家の方々と朗らかにお話させていただいた。
妃殿下が昔の王子の話をされ、王子が照れているのが印象的だった。
王女は噂通り大変かわいらしく、王子が大切にするのも納得できた。
薬を完成させたら猫が飼えるという話をしたら、すこぶる喜んでいた。
ひとしきり王家の方々と交流したあと、王子と二人になって、宮廷の庭を歩く。
「結婚してくれる気になったかい?」
王子が問う。
私は立ち止まって返事をした。
「ええ。宮廷の方々は温かいですし、ずっと一緒にいたいと思いました。でも――」
小水フェチになってしまった王子に言わなくてはいけないことがある。
「――お漏らしは、もうしませんから!」
最後までお読みいただきありがとうございました。