夜
鈴虫の鳴き声と共に、少し涼しくなってきた夜風を感じる。
頬の熱が冷めていくのと同時に、私は空を仰ぎ見て、一息吐く。
「……星、見えないなぁ」
だから都会の空は、好きになれない。
ただ空は真っ暗で、何もないようにしか見えないのだから。
私は前に視線を戻し、日課に戻る。
走りなれた街中の、人工の明かりが多い場所を走り抜けていく。
再び頬に熱が集まるのを感じながら、速度は緩めずにそのままゆく——と。ふと、視線を感じた。その方向を見ると、誰かと目が合った。
「……あ」
私はつい反応し、脚を止める。
ソイツは私と違う高校の、けれど、小さい頃からよく知ってるヤツだった。
「アレ——やっぱり!」
向こうはすぐに私の視線を受けて、私が誰か確信した様子で駆け寄って来る。
……相変わらず、フレンドリーなやつだ。
「よっ、お久! てか、また痩せたね⁉︎」
「あぁ、うん、まあ」
「会う度に綺麗になってて、マジびっくり!」
「あはは……ありがと」
ナハハッ! と楽しそうに笑う姿は、小さい頃と何も変わらない。変わらないけど……チャラチャラしたアクセサリーにメイク、派手髪と……装いは随分と変わった。
男の影響か、友達の影響か知らないけど、あまりこういう見た目は、私は好きじゃない。
けど、私がとやかくいうことじゃないので、口は噤んでおく。
「あっ、そういえば! おばさんから聞いたよ。陸上、もう少しで優勝だったって!」
「……あっ、そう」
なんでよりにもよって今、その話をするんだろうか。
いつもいつも、コイツはわざとやってるんじゃないかというくらい、間が悪い。
傷心中の人の神経を逆撫でして怒らせては、碌なことにならないのも、ここまで学ばないとなると……もう、どうしようもない。
相変わらず、デリカシーのカケラもないようなヤツだ。
「残念だったね。でも、次があるし、気持ちを切り替えて——」
「勝手なこと言わないで。もうアレが最後だったの。次なんて……ないの」
私が俯きがちにそう言うと、流石にこの能天気にも、私の気持ちが多少は伝わったのか……少し、深刻そうな雰囲気になると、彼女は私に近づいて来て、言う。
「えっ、じゃあ、なんで走ってるの?」
「……それは」
不意にされたその質問に、私はすぐに返答することができなかった。
なんで走っているのかといえば、日課で……そう、日課だからだ。
「日課だから、当然でしょ」
「日課って、なんで?」
「なんでって……」
「だって、もう走らなくていいんじゃないの? そもそも、なんで日課にしてるの?」
私はまた、返答ができなかった。
気付かされてしまったのだ。
私のこの日課は、陸上部で一番に、大会で一番になる為にしていたこと。
でも、もうその必要がない。
そのことに、たった一言で気付かされた私は……急に、何をしたらいいのか分からなくなってしまった。
「私……私には、もう」
「え⁉︎ ちょ、ちょっと⁉︎ なんで泣いてるの⁉︎」
「え——?」
気づけば私の頬は濡れていた。
無意識だった。
急に私の軸になっていたものを失ってしまった気がして、心が追いついて来れなかったのかもしれない。
それはきっと、今、コイツに自覚させられたからで……コイツが悪いんだと思う。というか、そう思わないとやってられない、と。私は八つ当たり気味に彼女に向かって悪態を吐く。
「アンタのせいよ」
「えぇっ⁉︎ なんで⁉︎」
「何をやればいいのか、分からなくなっちゃったじゃない……アンタのせいで」
私が服の裾で涙を拭いていると、彼女はいつになく真剣な表情で話す。
「……やることがなくなったって、本当に?」
「え?」
なぜか彼女は、真剣な、真面目な表情で詰め寄って来た。
「そ、そうだけど」
私が肯定すると、彼女はなぜか嬉しそうに言った。
「じゃあ、思いっきり遊べるじゃん!」
「は、はぁ?」
「昔みたいにさ! って言っても、ここは故郷の田舎じゃなくて都会の街だから、やりたいこと、なんでも出来るよ!」
「なんでもって……」
「ほら——行こ!」
強引な彼女に手を引かれて、私は——夜の街に脚を踏み入れる。
これまでは校則とか、部活とか、親の言いつけとかを守るために、決して踏み入れなかった場所。そこに身を投じてみた私は、正直、場違いじゃないかとか。私なんかがいていいのかとか。そんなことを思いつつも、キラキラした場所への憧れが、私の中にもあるんだと、自覚させられる。
「ジャーン! まずは〜、洋服!」
普段来たことのないお店で彼女にされるがまま、私は着せ替え人形にされ、いくつかの洋服を買わされた。ついでに着替えも。薄水色の短パンデニムに白のシャツ。そこに最近よくネットでよく見る、オシャレなデザインの薄手のカーディガン。色は薄桃色で可愛い。
「似合ってるね〜! やっぱり似合うねっ、桃色!」
「そ、そう?」
「うん! じゃあ、次はメイクだ!」
え、メイクまでするの?
私はあまり、メイクなんてしたことがない。
そういうのとは無縁な生活だったし、趣味だって、走るくらいしかなかった。
元々ぽっちゃりさんだったのもあって、体が変わるのは楽しかったし……でも、いつからか、楽しむ為じゃなく、タイムを競って勝つ為に走るようになっていた。
きっと、それは私には合ってなかったんだと、今になって思う。だって……苦しかった。いつの間にか、あんなに楽しかったのに、苦しくて、私は——走るのが嫌いになっていた。
「どうかした?」
「あ、いや、なんでもない」
「そ? じゃ、次いこー!」
「うん」
私たちは並んで街を歩く。
キラキラした街中を、こうしてオシャレして歩いていると、別人になったような気がして、ちょっと気持ちいい。
「昔はさ〜、田舎道を二人でこうして歩いたよねぇ」
「あ、うん。そうだったかも」
「うろ覚えとかひどっ! でも、二人で都会に進学してさ、こうやってまた一緒に並んで遊べるなんて、なんか奇跡じゃん?」
「奇跡……ではないでしょ」
「いーや! 奇跡! だってこっち来てから私と遊んでくれなくなったし!」
「そんなことは……」
「ある!」
まあ、確かに、それはそうだ。
学校も違うし、生きてるカテゴリも違ければ、そうもなる。
そう考えると奇跡……なのかもしれない。
「あ、着いたよ、ここ!」
案内されたコスメショップに着くと、さっきの洋服の時と同じく、強引に中に連れて行かれ、店員のお姉さんに買ったコスメでメイクを施してもらった。
ちなみにもうお金がないと言えば、彼女が出してくれた。
「お金、ありがとう」
「いいよ別に! これくらいなんてことないし!」
「いや、でも」
「これでも高校生にしては稼いでるからね! 気にしないで」
「……それって、パパか——」
「やってないよ⁉︎ 普通にバイト!」
私たちは店を出て、再び彼女に合わせて歩き出す。
「次はどこに?」
「とびきりオシャレになったし、とりま記念にプリ撮ってからの〜」
「からの?」
「——あんまいもの、食べに行こ!」
そう言うと彼女は急げ〜! 置いてっちゃうぞ! と、走って先をいく。
けど、とてもじゃないけど粗末な走りで、すぐに私は追いつく。
「うぇっ、はやっ⁉︎」
「私を置いてける訳ないでしょ」
「ご、ごもっとも……」
そんな風に戯れ合いながら、私たちはプリを撮って、あんまいものも食べる。
彼女おすすめの喫茶店で、店内の心地良いソファーに体を埋めながら、私は暖かい紅茶を楽しむ。
「ど? 美味しかった?」
「最高……」
「でしょ〜」
そうして彼女は不意に、壁に設置された時計を見ると、小さな声で「そろそろ良いかなぁ」と、口にした。
なんとなく、その言い方と、表情が見慣れないもので……少しだけ、嫌な気持ちになった。
「……今の表情」
「え? あっ、顔に出てた⁉︎」
「うん? 何が?」
「いいえ何でも! で、表情が、どしたん⁉︎」
「いや……なんか、悪女っぽかったなって」
私がそう言うと、彼女は否定もせず、徐に席を立ち上がった。
「会計しちゃおっか」
「あぁ、うん」
なんとなく誤魔化されたような気がするものの、私はもうすでに、彼女との時間に夢中だ。
次は一体、どんな楽しいを体感させてくれるのか。
そんな期待を胸に、私は店を出てすぐ、彼女に訊く。
「ねぇ、次はどこに——」
「一番、良いとこだよ」
やや食い気味にそう返してきた彼女は……やっぱりどこか、雰囲気が違うように見えた。
「じゃ、行こっか!」
私は、彼女の後に着いて行った。
これまでよりも、会話が少ない気がした道中。
私は特に変に思うこともなく、気がつくと——
「今日はここで泊まろっか!」
「泊まりって、え⁉︎」
「いやだった?」
「いや、別に良いけどさ……お金は大丈夫?」
「大丈夫大丈夫!」
「そう……あと、なんかこのホテル、やけに派手だね」
「そうかな? 普通じゃない?」
どこか釈然としない気持ちではあったが、急な泊まりとはいえ、楽しみではないといえば嘘になる。
色々な料理の写真が載ったメニュー表からもう、目が離れない。
「そういえばまだだったね、晩御飯。何か食べる?」
「いいの?」
「もちろん! あ、でも——」
私は座っていたソファーに押し倒される。
何が起きているのか分からないまま、私は彼女に馬乗りになられてしまう。
「——先に、こっち」
「こっちって——」
私の口が、防がれる。
そして、気がつくと私は……口の中を彼女に蹂躙されていた。息をする暇もないほどに。
「ぷはぁ! な、なんで……」
「なんでって?」
「——気づいてたの?」
私が走り始めたのは、痩せるため。
それは、好きな人に綺麗って褒めて欲しくて。好きになって欲しくて、始めたこと。
「知ってたよ、全部」
「そんな、いつから……」
「割と、小さい時からだよ。ずっと、一緒だったから。私は最初は姉のように、親友として接してたけど……でも、気づいたら好きになってた。絶対に誰にも取られたくないって思うようになってた。距離ができてからはどうしようって思ってたけど……今日、またこうやって、触れることができて、本当に嬉しい」
また、息が止められる。
次第に内から湧き出る歓喜と、熱に当てられた情欲が、私の思考を染め上げていく。
体を焦がすような熱が冷めてしまわないように、私は強く、彼女を抱きしめた。
初心忘るべからず。
気持ちを大切にできる人になりたい。




