水の地獄2
歩幅を合わせて歩く俺の横で、カドがぶつぶつ独り言を口にし続けている。
きっと水の地獄での様々な場面を想定して、どうやって俺を守ろうか思いを巡らせているのだろう。
ふと、少し前方に赤く小さな花がいくつか現れ、カドが子どものように駆け寄った。
後を追い、手に取って良く見ると、それは茎ではなく小さな枝に咲く燃えているような花だった。以前来た時に見なかったのは、季節ではなかったからだろうか。
「この花、お前に似合うな」
俺はカドの頭を花に近づけた。よろけるカドの顔を花の横に並べてみる。
「やっぱり似合う」
まじまじと見つめて言った。
「ちょと、やめろよ」
俺の手を振り払いながらカドが言った。
「お前の方が似合うだろ、赤い花、炎みたいで。それに……」
「なんだ?」
「お前、こういう時、花を引っ張るんじゃなく、俺の顔の方を花に寄せるんだな」
そう言って下を向く。
「花は動けないけど、お前は動けるだろ。あっちにはもっとたくさん咲いていると思う。そろそろ境界域だ」
「花がたくさん?」
カドが走って傾斜を登って行く。
俺もカドを追って登り切ると、そこには赤い花が地面が燃えるように広がる光景があった。
「すごいな……」
カドが上がった息を吐くのと一緒に声に出した。
赤の向こうに同じ種類と思われる白い花の集団も見えた。カドが炎を突っ切るように赤い花の中を走り、俺に手を振った。
俺も指先で花に触れながらカドの方へゆっくり歩く。
そして今度は白い花の前でかがんだ。
「この色もきれいだな」
俺が言うと、カドも満足そうな顔をする。
「そうだな。お前、やっぱり赤い花よりこっちの白の方が似合う」
そうだろうか。じっと花に見入っている俺にカドは続けた。
「エンドは白い服も絶対に似合うだろうな。いつも甲冑みたいに隙のない重そうな黒いのばっかり着てるけど、暑くないのか? 確かにお前の、その白っぽい金色の髪には合ってるけど。俺なんてこんな薄い着物一枚だぞ」
「さあ、暑くはないな。着ているものは……造ったやつの趣味だろ」
俺たちが花と戯れていると、後ろから知らない声がした。
「お前、神様の――」
振り返ると碧く美しい目がカドを見つめていた。こんな見通しの良いところなのに気がつかなかった。水の悪魔か。
俺は一歩前に出て言った。
「すまない、花が珍しくて夢中になってた。俺は炎の悪魔でエンドフォス、こいつは…… 実は記憶を失くしていて何者かはっきりしないんだが、名前はカド」
「こっちこそ驚かせたなら謝る。神様の気配がしたものだから」
その碧い目の悪魔はまたカドを「神様」と呼ぶと、口元に柔らかい笑みを浮かべて名乗った。
「俺はシス、水の悪魔だ。この境界域に住んでいる」
あまりに整い過ぎた、繊細な顔のせいで神経質そうに見えるが、笑い方はとても穏やかで柔らかい。
「どうしてこいつが神様だと思った?」
俺はシスに尋ねた。
「あ、いや、俺の知っている神様に雰囲気が似ていたんだ」
「狐を連れた神様に会ったことがあるのか?」
俺の問いにシスは頷いた。
「ああ、ある。でもその前に、何者かはっきりしなというその子が気になる。ちょっと見てもいいか」
「いいよな? カド。何かわかったら教えてくれ」
急に無口になったカドが頷くの見て、俺が代わりに答える。
シスはカドの顔を両掌で抑えると、自分の額をカドの額にそっと寄せた。白い前腕に赤い傷跡が見える。
額から記憶を読み取るのは、悪魔共通の方法だが、顔ごと寄せるのが水の地獄のやり方なのだな。
シスの透けるような金色の髪が、カドの顔にはらりと落ちた。
カドが困った顔をして俺を見た。何が言いたいのかわからず首を傾げて見返しているとカドがやっと声を出した。
「なあ、ちょっと待ってくれ。記憶を読み取るなら額に手を当てるだけでで十分じゃないか。何でそんなに顔をくっつけてくるんだ」
カドがシスから身体を押し離す。
「シス、すまないな。こいつ人見知りなんだ」
「そういう事じゃないよ」
カドはそう言って、怒ったように地面を見ている。
シスが困惑した声で助けを求めてきた。
「この子、いつもこうなのか」
「俺が触れても平気なんだけどな。それでどうだった、何かわかったか」
カドは放っておくことにして聞いた。
「確かに、これは何だろうな。神様、悪魔……それに確かに人間の魂を感じる。不思議だな」
「そうだろ。俺がそいつを炎の地獄で見つけたのが一年ほど前だ。未だ何者かわからない。記憶を戻してやりたいが、手がかりが少なすぎてな。神様だけが、人間の世界と地獄と極楽を行き来できるだろ。神様たちは何故か人間の世界で過ごすことが多くて、地獄に長くいることはまれだ。ところが最近、水の地獄に滞在している物好きな神様がいると聞いて、こいつのことを何か知らないかと期待して会いに行くところなんだ」
「協力するよ」
シスは少し空の方へ顔を向けながら続けた。
碧い目に太陽の光が射しキラキラと輝いている。
「狐を連れた神様とは話したことがある。『シロキさん』がどこにいるか知らないか、と声をかけられた」
カドがはっとして顔を上げる。またシロキさんか。
「一年程前に会う約束をしていたシロキさんが急に消えてしまったと教えてくれたよ。ちなみにシロキさんというのも神様だ」
カドが胸の辺りを押さえた。
「大丈夫か?」
カドの肩を後ろから支えながら尋ねる。
「うん、大丈夫。ありがとう」
シロキさんは神様か……カドに纏わりつく神様の感触。急に消えたという時期もこいつが地獄に現れた頃と重なる。それにカドのこの反応。カドがシロキさんということか。
「こいつがシロキさんってことはないかな?」
シスは驚いた様子でまじまじとカドを見た後、答えた。
「どうかな、俺は違うような気がするが。狐を連れた神様に直接聞いてみろ。この子がシロキさんなら怒られるかも知れないな、神様同士の約束を守らないなんて。その神様はこの山を越えた先の岬に良く現れる。見た目はなんというか……幼い感じだな」
「こいつよりもか」
カドを見て言う。
「俺は子供じゃないぞ」
カドの反論を気にする様子もなくシスは続ける。
「そうだな。その子—―カドと比べてもずっと幼く見えた。人間の感覚なら、十代前半の少年の姿のまま存在している。華奢で、かわいい顔をして。まあ幼いとはいえ、神様だから俺ら悪魔と違って魅力的だ」
カドが俺に肩を支えられたままうんざりした表情で言った。
「悪魔と違ってって……悪魔も自虐とか言うのか。それともお前ら鏡も見たことないのか。まあ、なくてもいいよ。それじゃあ、今、エンドとシスさんでお互いを見てみろよ。どうだ?」
俺とシスは困惑しつつお互い見つめ合う。
「どうと言われても……悪くはないんじゃないか、見た目も魂も。普通だよな……? 俺たち」
シスも困って頷いている。
「普通じゃなく、完璧じゃないか。姿も魂も。全部、完全に揃ってるだろ」
珍しくイライラしているカドをシスが心配そうに一瞥して尋ねてくる。
「何度も同じようなことを聞いて悪いが、この子、最初からこうなのか」
俺も同じく心配な口調で答える。
「少なくとも俺と会った時からずっとこうなんだ」
ふうっと溜息をつき、シスが真剣な表情でカドに顔を近づけた。
またカドがびくっと緊張する。
「お前、俺たちには欠けているものがないように見えるのか? それが足りなんだ。人間は完成の途中にいるから欠けていて当然だが、神様は完成されているのに欠けている。その欠かけてる部分にあるものが貴重なんだよ。俺たちはそれに魅了されてる。お前の欠けてる部分は何でできてるんだ?」
シスも説明が下手だと思う。カドは何となく、完璧が最高ではないと主張されているのはわかったようだが、他は全然理解できていない表情をしている。当然だ。
「俺に欠けている部分……まず記憶が欠けているし、他にもきっと……まして欠けている部分にあるものって何だよ」
「まあ、いい。欠けている部分は最強だから自覚したら気をつけて使え」
「………」
しばらくの沈黙の後、カドが話を変えた。
「ところでシスさん、教えて欲しい事があるんだ。炎の悪魔は水の地獄の水に触れると消えてしまうんだろ。水の地獄ってどういう所かわからないけど、水に触らずに狐を連れた神ところまで行くことは出来るのか」
シスはカドに柔らかく笑いかけた。
「大丈夫だよ。別に水の地獄と言っても、そこら中が水没している訳じゃない。むしろ陸地の方がずっと多いから安心しろ。この山を越えると海が見える崖に出る。そうした北に向かって海岸沿いを進め。しばらく行くと、ひと際大きな岬があって、狐を連れた神様はそこに良く現れる。実は、海岸沿いは水の地獄で唯一雨が降らない。雨が降るのは山の方ばかりだ。崖から海を覗き込んだりしなければ大丈夫。不用意に水に当たらずに済む安全な道だ」
「ありがとう、シスさん」
カドの表情が緊張と共にほぐれ、俺を振り返る。
「念のため水の地獄に入ったら俺が先を歩くから。お前に水溜りも踏ませないように」
「ああ、ありがとう。俺も気をつけるからそんなに頑張らなくていいぞ。さすがに水溜りぐらいじゃ消えないよ」
カドが急に頼もしいことを言うので嬉しくなる。
「お前たちは、お互いに心配し合って大変だな」
シスが美しい目を細めた後、はっとした顔で付け加えた。
「そうだ、一つだけ注意してくれ。水の地獄には間欠泉があるんだよ。本当なら場所を特定して教えてやりたいところだが、それは不定期に移動するから無理なんだ。俺たち水の悪魔には反応しないが、外から来た動くものを目指して移動するようだ。しょっちゅう現れるものでもないが、もし会ってしまったら、ただ逃げろ」
「忠告ありがとう。間欠泉か。やっかいだが、こいつが助けてくれるっていうから大丈夫だ」
俺はカドの肩をポンと叩いた。
別れ際、シスは俺たちに、静かな風が吹いた時の水面のような笑みを浮かべ「お前たちにまた会いたい」と言って見送ってくれた