湖畔の邸宅⑥
「それではまずは私が確かめさせてもらいますわ」
そう言ってシェトリーさんはキャビアを口に運びました。これはしきたりにあった、客人に出すキャビアの一口目は必ず当主が最初に味を確認するとかいう作法です。
数回の咀嚼の後にじっと目を閉じるシェトリーさん。舌の上に全神経を集中させているようです。
やがて嚥下と共に目を開き
「お待たせしましたわ。こちらのキャビアは当家の名に懸けてナイトのキャビアですわ。ご賞味くださいませ」
とおっしゃいました。
「はい。いただきます」
夜空の星か湖面のような、あるいはよしと言われた子犬のようにキラキラと目を輝かせながらピアは手に持ったスプーンを口に迎え入れました。舌がキャビアの存在に気付いたであろうその瞬間、その目は一際大きく見開かれ、やがて小さく息を吐きました。
「すごいです…!魚の卵とは思えません。香ばしくて、燻製とまではいきませんが、木の実のような…それにとても滑らかで、クリームが詰まっているみたいです」
”ローですか?”
「塩味は薄いように思います。ローですね?」
「その通りですわ。ローがキャビアそのものの味を一番よく感じられますからね」
ローというのはキャビアの処理方法の一つです。特に添加物を使用せずに処理したものがこのローで、逆にキャビアを塩で処理したものはパストライズ。当然ながら塩味が強くなり、料理やおつまみに向きます。
「すごいですよサラさん。魚の卵のはずなのに全然プチっとしません」
”え?どういうことですか?”
「膜の中身がとても濃厚なので、膜が破れても中身が勢いよく流れだしたりせず、しばらくそのままの形を保つんです」
タラコやイクラなどは全く違うということですね。
”ということはもしかして、人工キャビアって全然キャビアじゃないんじゃないですか?”
人工キャビアを食べた時のピアのリアクションは今と比べるとひどく落ち着いていました。
「そうですね。本物のキャビアを食べた今、人工キャビアをキャビアだと言っていいのか、疑問にすら感じます」
「そうでしょうとも!」
シェトリーさんが拳を握りしめながら立ち上がりました。
「人工キャビアはあくまで雰囲気を楽しむだけの代替品。ナイトでなくとも本物のキャビアを食べたことがあれば、間違えることなどありませんわ!」
しかしだからこそ、ナイトの品質低下は由々しき事態なのでしょう。常連さんともなればその質の変化を敏感に感じ取ることでしょうから。
「品質が落ちていてもこれほどおいしいというのはすごいと思いますよ」
「ありがとうございます。ですがこれは今あるものの中でまだ品質が良いものですわ。悪いものはここからさらに味が落ちます。そうそう。お夕食には今開けたキャビアの残りを使用しますことよ。お楽しみに」
「お夕食までいただけるんですか?」
「もちろんですわ。お夕食どころか、仕事が終わるまでの身の回りのお世話は全て当家がいたしますわよ?」
仕事の現場がここである以上そうするのは効率の面ではいいでしょうが、しかし同時に成功するまで逃がさないという無言の圧力を感じます。
「え?いいんですか?あ、でも、実はもう宿を取っていまして…今夜の宿代は払っていますし部屋の鍵も持ったままなので、今晩だけあちらで過ごしていいですか?」
「わたくしは構いませんが、よろしければ遣いを出して宿のチェックアウトとお荷物の回収をいたしますわよ?」
「それはありがたいです。宿に荷物は置いていないのでチェックアウトだけお願いできれば」
「え?でも、こちらにも荷物は持って来ていませんわよね…?」
シェトリーさんは首を傾げました。ピアは大きな荷物も持っていなければ宿に置いているわけでもない。ならば旅のしたくはいったいどこにあるのかといったところでしょう。
”ピア。見せて差し上げてはどうですか?収納術を”
「そうですね。シェトリーさん、私の荷物はちゃんとありますよ。とある場所に魔法でしまってるのです」
そう言うとピアは目の前で両手を重ね、カーテンを開くように勢いよく広げました。
すると目の前の空間はグニャグニャと波打ち始め、やがてうろのような穴がぽっかりと空きます。
「今お見せしているこの謎の空間は亜空間と言って、膨大な魔力と高度な術式によって生み出された疑似的な空間です」
「疑似的…?空間のように見えているけど実はそうではないということですの?」
「いえ、空間自体は紛れもない空間です。ですが現実の空間とは違って時間の流れが存在しないんです」
つまりこの中に入れたものは一切の変化が起こらないということです。
これが開発された大昔は魔術師が中に入ってしまい、永久に出てこられなくなりそうになるという事故が起こったらしいですが、現在は研究も進んで様々な安全措置が講じられ、そのようなことは起こらないようになったらしいです。もちろんピアの亜空間もその例には漏れません。
「つまり、生ものなどを入れても腐らないということですの?」
「その通りです。私はそこに最低限の着替えやお土産などを入れているので、旅の道中も基本手ぶらです」
「なるほど。状況は分かりましたわ。それでは宿の鍵だけ、お預かりしますわね」
「お手数おかけします」
こうして宿泊先が銀貨三枚の普通の宿からお値段不明の豪邸へとランクアップしたのでした。
******
お茶会が終わるとピアは途中だった魔法の調整を完了させました。
「できました」
「え!?もうですの?」
シェトリーさんが驚くのも無理ありません。大体五分くらいで終わりました。
「はい。大まかな作業は馬車の中で済んでいたので、最後の見直しを終わらせました」
ですが、と驚くシェトリーさんにピアは続けて言います。
「まだ理論上うまくいくだろうという段階ですので、テストは不可欠です」
「なるほどですわ。それで、そのテストはどうしますの?」
「実際にチョウザメがいるところで発動して、正しく作用するかを確認します」
”今回の一番の骨折りポイントですね”
そのチョウザメがどこにいるか分からないというのですから。
「あるいは、テストとして発動した魔法が指し示す方向へ行って、そこにいたのが本当にチョウザメだったら合格というテストもあります」
”卵が先か、鶏が先かみたいな話ですね”
「キャビアが先か、チョウザメが先かというやつですわね」
「ベルアイランド家ではそう言うんですか」
種族が変わっただけで言ってることは全く同じだと思いますが。
”あ、ちょっと待って下さい。キャビアが先なんじゃないですか?”
と、思いついただけのことを口走ってしまいましたが、しかし今のは別に永遠の謎に対するアンサーとかではなく、今回の打開策として。
”チョウザメよりも先にキャビアを探せば、親も産卵場所も見つけることができるんじゃないですか?”
「キャビアで親を探すということですか…。シェトリーさん。湖の中にキャビアがあるとすれば、産み落とされたものか、親のお腹の中、ですよね?」
「ええ、その通りですわ。もちろん例外はあると思いますが。今の時期なら親のお腹の中が一番可能性が高いと思いますわ」
「なるほど。それならキャビアを探す魔法に調整し直すとうまくいきそうですね」
そのために必要なキャビアはなるべく新鮮でまだ味付けなど処置が施されていないものをシェトリーさんに出してもらいました。
調整を終えるとピアは、すぐにでもテストをしようとシェトリーさんに提案しました。すると
「そうですわね。善は急げですわ!」
と、とても乗り気でした。その勢いのままじいやの元へ舟を出してもらうよう頼みに行ったのですが
「申し訳ありませんが、舟を出すことはできません」
「そんな!どうしてですの!」
じいやいわく、もう今日は舟を漕げないとのことでした。まあ、老体があれだけ舟を漕ぎ続けたのですから、当然でしょう。
「それは仕方ないですわね。ゆっくりお休みになって。…ピアティカさん、そういうことなのでテストはまた明日に」
「いえ、ご安心ください。そういえばこういう時に役立つものがあったのを思い出しました」
そう言ってピアは亜空間からとあるものを取り出しました。