湖畔の邸宅④
特訓、というと少々スパルタなものが思い浮かびますが、シェトリーさんからベルアイランド家の掟やしきたりについてのお話を聞いて、その要点をピアがメモして頭に入れるというものでした。
ついこの間まで学生だったピアにとってこの程度の暗記はどうということはありません。覚えるのは知らない単語などではなく、掟やしきたりという理解可能なものなので、丸暗記しなくてもいいですしね。
「――しきたりは今ので全部ですわ。じいやはまだ終わっていないようですわね」
十五分程度でシェトリーさんからのレクチャーは終了しました。思ったより早かったですが、一夜漬けどころか一時間漬けなのでこのくらいが丁度いいでしょう。
しかしよく考えるとじいやも大変です。掟やしきたりを質問形式にしたり穴埋め形式にしたり、内容にひねりを加えないといけないので、それなりに時間が掛かってしまいます。
その時間を利用して試験勉強を続けるピア。果たして無事合格することができるのでしょうか。
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「ではこれでピアティカさんは晴れてわたくしの顧問魔術師ですわね!」
「…認めましょう」
結果、心配は杞憂に終わり、ピアは無事テストに合格しました。
テスト勉強に割いた労力分のお金は要求してもいいように思いますが、しかしピアは何でもない事のように振舞っています。もしかしたらピアにとって本当に大したことではなく、学生時代を懐かしむいい機会だったのかもしれません。
「分かっているとは思いますが、勉強した内容はこのテスト限りのものにはしないように。ベルアイランド島に踏み入るために必要なことですので」
と、最後にじいやから釘を刺されましたが、それには良い返事をしてピアはシェトリーさんの待つ舟に乗り込みました。
ピアが乗り込むとすぐに舟は出向しました。この舟の動力はじいやです。後ろでぎいこぎいこと漕いでいます。かなりの重労働でしょうに美しい姿勢は終始保たれていました。専属のじいやともなるとこのくらいは当然なのでしょうか。
「ナイトキャビアを産むチョウザメはこの湖に住んでるんですよね?」
ピアは舟から顔を覗かせて湖面を見つめました。水は綺麗に透き通っていますが、水草が茂っているせいで湖の底はおろか、中を泳ぐ魚の姿さえあまりよく見えません。
「その通りですわ。ただ、チョウザメは底の方を好むので、舟の上から姿が見えるのは珍しいことですわ」
「じゃあ、今日はラッキーな日ですね。さっきから時々チョウザメのような魚が見えますよ。ほら、あそこ」
「…確かに、珍しいものが見れたという意味ではラッキーですわね」
しかし彼女にとっては見慣れたものでなのでしょう。シェトリーさんの声は落ち着いていました。
「あ、あとあっちに猫もいますわよ」
「え?猫?」
”ウミネコのことでしょう”
しかしシェトリーさんが指さす方を見ると本当に猫が泳いでました。ウミネコじゃありませんし、よく考えたらそもそもここは海じゃなくて湖でした。
猫は溺れているようでもなく、すいーっと水面から頭だけを出して私たちの前を横切っていきます。町で見る猫に比べるとやや耳が短いようですが、それ以外は普通の猫に見えます。
「あ、本当ですね。泳いでます」
”水が苦手じゃないんですね”
「スナドリネコという猫ですわ。わたくしの島に住み着いてますの。泳いで魚を取るんですのよ」
「魚を取るのにスナドリなんですね」
「漁をすることを昔の言葉で『すなどる』というのです」
じいやが解説してくれましたが、魚を取るのにスナドリな理由はやはり謎です。昔は漁の技術も未発達で魚のつもりでよく砂が取れていたのでしょうか。底引き網ならあり得そうな話です。こんな水草の茂った湖で底引き網が使われていたかは怪しいですが。
それからは特に珍しい魚も猫も現れず非常に穏やかに舟は進み、やがて島に到着しました。
「着きましたわ。ようこそベルアイランドへ」
「お邪魔します」
「ここからは馬車です。こちらへどうぞ」
下りてすぐのところに馬二頭で引く立派な馬車がそこにはありました。御者はじいやが務めます。舟を漕いだり馬車を走らせたりと多彩な方です。
「では島に入ったことですし、依頼の内容をお話させていただきますわね」
「お願いします」
そういえばそういう話でしたね。島、つまりは部外者がいない環境でしか話せないということでした。
「まず、キャビアの質が落ちているということはお話しましたわね?」
「はい」
”『クソ』でしたよね”
「原因は分かっていますわ。最近チョウザメの数が減り、本来なら逃がしているような痩せた固体からも卵を収穫していることですわ」
キャビアとその母体との関係について詳しくは知りませんが、健康な母体が良い卵を産むだろうということは想像に難くありません。
「ということは、根本的な解決のためにはチョウザメが健康に生きられるような湖にすることが必要ということですね?」
”そうすればおのずとチョウザメの数も増えてくるでしょうしね”
「ええ。ですが、こうなった要因は他の品種のチョウザメが増えたことにもあります。単純に餌をばらまくだけではむしろ悪化しますわ」
湖に均等に餌をばらまけば既に数の多い他の品種の方が餌にありつく可能性が高くなるということですね。確かにそうなれば格差は広がるだけです。
しかしそもそも、生態系にはそういった個体数の変動があっても食物連鎖などがはたらいて何だかんだいい感じに元通りになったりするはずなんですけどね。
まあ、「何だかんだ」とか「いい感じに」などの曖昧な表現からも分かるように、この仕組みは絶対の法則ではありませんし、例外なんていくらでも存在します。
「もしかして、ナイトのチョウザメが減ったのは他の品種との生存競争の結果であって、そういう意味では自然の成り行きということですか?」
”身もふたもない言い方ですが、実は私もそんな風に思い始めてました”
そうなってくるとナイトキャビアもそろそろ潮時、というのが一番まともな結論な気もします。
「そうかもしれませんわ。ですが、そうとも言い切れないのが昨今の状況ですわ」
「その状況というのは?」
「人工キャビアですわ」
「人工?」
人の手でキャビア、すなわち魚の卵を作り出せるというのでしょうか?仮にできたとしても手間暇がかかりすぎてまともな商売にならなさそうですが。
「元は中に薬を入れて飲むもので、どこかの薬屋が作った代物と聞いておりますわ。それで薬ではなくキャビアに似せたうまみ成分を包んで出来上がったのが人工キャビアでしてよ」
”本来環境や気候に左右される味も、人の意思で自由自在ということですか”
便利なんて言葉じゃ済まない位の発明です。
「もしかしてそれって、手作りすることもできますか?」
「ええ。今は中に入れるうまみ成分に色んなアレンジを加えることもできますわ。飲食店の中にはそのオリジナリティーで勝負するというものもあります」
なるほど。じゃあ昼間の手作りキャビアのソースは本当にキャビアが手作りされていた可能性もあるということですね。
「その人工キャビアは何より安いのが特徴ですわ。そこに人気が出て、天然のキャビアの需要は全体的に減りましてよ。ナイトキャビアはそもそもが大衆向けではない高級品でしたから、当家には廃業に至るほどの悪影響はありませんでしたが」
「それはなんというか、不幸中の幸いでしたね」
「ただ最大の問題は、人々の間に『安いなら人工でも十分』という意識が芽生えたことですわ」
キャビアと言えば高級珍味というイメージがあり、皆奮発して買うものです。その認識が一度でも覆れば、もはやキャビアのイメージが高級品に戻ることはないでしょう。安いものに惹かれてしまうのは人間の性なのです。
「初めは小さなキャビア販売者が廃業し、他の品種の漁獲量が減り、ナイトが生存競争において数で不利になったとわたくし達は考えていますわ」
なるほど。ナイト以外のチョウザメからすれば命拾いしたこの状況ですが、ナイトからすれば今まで人間によって減らされていたライバルが急に増えたということですか。
「でも、だとしたらやっぱり打つ手はないんじゃないですか?むしろ人工キャビアのおかげで自然な状態に戻ってるんじゃないですか?」
”確かに”
これでナイトキャビアの収穫もやめれば全て元通りになるんじゃないでしょうか。
「人がキャビアを獲らない状態を自然と言うなら、そうですわ」
”獲る状態の方が自然なんですか?”
「ですが、ナイトと当家の関係は三百年以上続いていましてよ。その間に築き上げられた人とチョウザメの関係にとって今回の他品種の増加は不自然と言えますわ」
確かにそうかもしれませんが、、生物の歴史においては三百年にわたる人とチョウザメの関係だって不自然な出来事なのではないでしょうか。
「うーん…。私には自然という大きな規模では何が正しいか判断はできません。ですが、それでも何とか方針は一つ、思いつきました」
「聞かせてくださいまし」
「生け簀を作ればいいんじゃないでしょうか?」
「……ええ、確かに、自然から切り離してしまえばその領域は倫理も真理も必要ない、私たちの利益だけで話ができますわ。ですが、それはあまりにも困難がありすぎますの」
何だか過去に失敗したような物言いですね。
「まず何匹のナイトが必要かが分かりませんわ」
「オスとメスを一匹ずつでは駄目なんですか?」
多分駄目だとは思いますが、しかしそれは細かい話。基本的にはオスとメスが一組揃えば繁殖は可能なはずです。メスの卵の一部をキャビアとして出荷して、残りをしっかり孵化させ自然よりも高い生存率で成長させれば、鼠算は成立すると思うのですが。
「駄目ですわ。百は最低でも必要ですわ」
「え?そんなにですか!?…もしかして、チョウザメって毎年出産するわけではないんですか?」
「いえ、半年に一度は卵を蓄えますわよ。…あ!なるほど、分かりましたわ。ピアティカさんにはまだ説明していませんでしたわね。キャビアの収穫方法」
その言葉を聞いて私は自身の勘違いを悟りました。キャビアは魚の卵だから、身近な卵であるところの鶏卵と同じように考えてしまっていたのです。
鶏は生きている限り周期的に産卵をする。だから同じ親から何度も卵が取れると、そう思い込んでいたのです。
「ナイトだけではありませんわ。全てのキャビア、いえ、全ての魚卵はその収穫において、親のお腹を切り開いて行います。収穫では親の命も一緒に、わたくしたちは頂きますのよ」
つまり、チョウザメの卵の収穫は育てて採るような長期的なものではなく、殺して獲るという刹那的なものだったのです。
「すみません。私、大変な勘違いを…」
「いえ。卵というとそう考えるのが普通だということをわたくしも忘れていましたわ」
つまり、キャビアのための生け簀ならば収穫する分も考えて多めに確保する必要があるということですね。孵化した幼魚が成長するまでの時間を考えると相当数の成魚でそれまでの時間稼ぎをしなければなりません。困難がありすぎるという言葉の意味が、ようやく分かりました。