8 ヨル・ブライアとの再会、そして追走
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本来の仕事をロイドは忘れなかった。ヘンリー・ヘンダーソンへの取材では、ポーランドのユダヤ問題について徹頭徹尾、是非論を戦わせた。
帰社の後、我が家へ帰るべくタクシーに乗った。
自宅近くのオックスフォード通りに出たとき、人や車の中にある一人の姿を見つけて、ロイドはハッとした。
ヨル・ブライアが、リージェント通りの方から急ぎ足で出てきたのだ。すぐに車を止めさせた。
「ヨルさん! 私です。覚えていらっしゃいますか」
「えっ」
ヨルは幽かに叫んで、叩かれた猫のように身を縮めた。が、ロイドと目が合い、それが誰だか認めると、何気ない様子を装って、顔をあげた。
「ロイドさんでしたね。昨日はありがとうございました。無理なお願いを快く受け入れてくださったのに、何もお返しできずにお別れしてしまって……」
「いえいえ、気になさらないでください」といって、ロイドは笑った。「ヨルさんは、このあたりにご友人でもいらっしゃるのですか?」
「はい……」
ヨルは答えたけれど、しっかりした返事ではなかった。昨日初めて会ったときとは違って、今日はなんとなく元気がないようだった。それがまた、ロイドにはすこぶる可憐に感じられて、ゆったりと時間をとって話をしてみたかった。
しかしヨルは急ぎの様子だった。いろいろと聞きたいことがロイドにはあったが、口をつぐむことにした。
そのとき、ロイドに悪い考えが浮かんだ。競売で、買う気もない品に一〇〇ポンドと野次ったのと同じ、いたずら心だ。
ロイドはタクシーに戻ると、運転手には金を渡し、そのまま自分の家に行くように伝えた。すぐに反対の出口から飛び降り、急いで隣の別のタクシーに乗り込み、
「あの人のあとをつけてください」と命じた。
運転手はうなずいて、ヨルが動くのを待った。ヨルはしばらく、ロイドの家に向かうタクシーを眺めていた。が、通りを隔ててロイドとは反対の側に行き、ある自動車の運転手に何かを話し、それに乗り込んだ。
そのとき、黒いヴェールをつけた女性が、息せき切ってヨルの車に走り寄ってきた。それに気づいたのか、ヨルが窓から首を出した。
黒いヴェールの女は、一度、周囲を見回し、ヨルと同じ車に乗り込んだ。すぐにエンジンがかかり、動き出す。
「追ってくれ」
ロイドは運転手に命じた。
普段から賑わっているオックスフォードの街であるが、その日はとりわけ人や車の往来が激しかった。
ヨルの車は巧みに、マーブル・アーチの方角に向けて全速力で走った。
が、リージェント・サーカスを駆け抜けたとき、警官に停車命令を受けた。人混みの量に対して運転が危険すぎたからだろうとロイドは思った。
なんのわけか、ここで、黒いヴェールの女は、警官にどこかへ動向を命じられる。
黒いヴェールの女の姿が見えなくなると、ヨルの車は先程よりも更に勢いを挙げて、走り出した。つけられていることに気づかれたのかもしれない。それを追うロイドの車は何度もひやりとする場面に合い、そのたびに通行人から「馬鹿野郎!」と怒鳴られた。それにも構わず、ロイドは運転手を急がせた。
マーブル・アーチでヨルの自動車は、急にパークレーンに方向を変えた。ロイドはヨルの車を見失ったものの、運転手は平然と、「すぐに出てきますよ」といい、リージェント街の反対側で待ち伏せした。
するとすぐに、見覚えのある車が出てきた。段々と速力を緩めて、一〇メートル
ほど先で止まった。
「ほらね。ああやって巻こうとするのが、この街のタクシー運転手の常套手段なんですよ」
運転手は誇らしげにいった。
ロイドは運転手に多めに金を渡すと、すぐにヨルの自動車に走り寄った。
そして、扉に手をかけた。
そのとき、中から出ようとする婦人と顔を突き合わせた。
有名女優、フィオナ・フロスト。
ヨル・ブライアの姿はなかった。
予想外の人物との出会いに、ロイドはしばらくは驚きのため、一言も発せられなかった。