1 ヨル・ブライアとスフィンクスの鍵
二〇世紀初頭のことである。
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昨年九月二九日の朝だった。ある新聞社の政治記者、ロイド・フォージャーは、ロンドンの街を歩いていた。ニュー・ボンドに通りかかると、不意に、ある商店の中から、競売をする声が聞こえた。
「さあ、この装飾箱はいくら!」
ロイドは冷やかしに、品物も見ずに、
「一〇〇ポンド」と、野次って行き過ぎようとした。
ロイドが二、三歩踏み出したとき、
「そちらの紳士、あなたの落札ですよ」
急に、後ろからこう呼びかける声があった。振り返って見ると、五〇歳程度の競売人が、綺麗な装飾箱を抱えて立っていた。ロイドは、冷やかしをするつもりで、買うつもりはなかった。しかし、一瞥したその装飾箱の彫刻が、妙に好奇心をそそった。なので、さきほど新聞社から受け取ってきたばかりの金の中から、大枚一〇〇ポンドを奮発して、この装飾箱を引き取ることにした。
「これが提げ網、これが引き出しの鍵です」
競売人はこういって、銀製の提げ網と、人束の鍵とを渡してくれた。
「大変な数の鍵ですね」
「そうですね。底の四方がみんな引き出しなんですよ」
かなり大きな木製の装飾箱には、底の四方に無数の小引き出しがついていた。
ロイドの好奇心をそそった彫刻は、箱の周囲に唐草模様の幅広の輪郭を浮き彫りで彫ったものだった。その輪郭の異様な超極が、一面日面に違ったものであることに気づいたとき、「これは掘り出し物だ」と思った。しかし、ロイドは美術に精通しているわけではない。これらの彫刻が何を意味するものであるとか、いつの時代のもので、作者は誰で、一〇〇ポンドの価値はあるのかどうかということなどについては、わからなかった。それでも、自分がこの装飾箱の持ち主になったことが嬉しかった。ロイドは装飾箱を、銀の提げ網の中に入れてみた。きちんと隙もなく収まった。ロイドが心地良げに、もういちどそれを眺めると、装飾箱の彫刻は、不思議にも、網の目から、一層興味深い形に見えた。
ロイドは満足した気持ちで、行き交う人々の中にまじろうとした。
「あの、すみません……」
また数歩踏み出したとき、再びロイドを誰かが呼びかけた。思わず立ち止まったときには、呼びかけた人は、もう目の前にやってきていた。今まで見たことのない美しい女性だった。
「急にお呼び止めして、すみません。……それに、こんなことを突然お願いするのは、不躾なのですが、……実は、折り入ってお願いがあるのです……」
美しい女性は、そこでいいよどんだ。ロイドが恍惚となって見とれているのに気づいたからであろう。顔立ちの完全な、すきっとした鼻、形の良い口、黒く大きな瞳。ロイドはここまで人を魅了する女性を、今まで見たことがなかった。歳のほどはわからなかった。凛とした佇まいからは成人して暫く経っているようにも見えたし、透き通る肌は一〇代半ばのようにも見えた。仮に美のイデアというものがあれば、この女性のように年齢の概念が捨象されたものになるだろう。
しかし、まもなく我に返った。
「……何でしょうか。聞きましょう」恥ずかしさをごまかすためにこう促した。
これまでロイドに対して半ば怯えるような様子を見せていた女性も、このときようやく安心したらしい。アカシア製の両手に収まる小ささの箱を、彼女は見せた。
「はい、その、いま競売で受け取った鍵の一つを、この文箱のためにお譲りいただきたいのです」
「そんなことでしたら。……いや、鍵が一つ減ったら、引き出しのどれかが開けられなくなるでしょう」
「ですが、その鍵は、引き出しより一つ多いのですよ」
「本当ですか?」
ロイドは訝りながら、ポケットから鍵の束を出してみた。装飾箱の引き出しは一面に六ずつ、合わせて二四あった。鍵は二五本ある。
「一本多い……。これは、どこか他の鍵と一緒になっているんだな」
「そうなのです。あなたには一つ余分なのです」
「はは、わかりました。あなたの文箱の鍵が、この鍵束に紛れ込んでいるといいたいのですね。いいでしょう。見てみましょう」
ロイドは、一つ一つ鍵をとりだしてみた。それらの鍵には、薙刀型の柄のところに、三重の輪の内にスフィンクスが咆哮する紋章が刻まれていた。どこかで見たもののような気がするものの、ロイドにはそれをどこで見たのかどうしても思い出せなかった。
「どれが余分なのか、鍵穴に差して確かめてみましょう。……あ、それよりもあなたの文箱をお貸しください。そのほうが早くわかります」
「いいえ、どれなのかはわかります」
女性はわけもなく一本を選りだして、自分の文箱の鍵を外した。ぱちんとかすかな音がして、文箱はあけられた。
「え……」
同時に彼女は驚きの声を上げた。
「何です、何がありましたか」
ロイドも伸びるようにしてその文箱を覗き込んだ。そこには、人を驚かすようなものは見当たらなかった。
「どうしたのですか?」
「いえ、なんでもありません」
しかしロイドは、彼女がなにか隠しているに違いないと思った。
「……どうもありがとうございました。お礼はいかがいたしましょう」
「なに、どうせ私には余分だったものです。それに、その文箱のための鍵なんですから」
「ですが……」
と、女性はなにか躊躇している。
ロイドは、急いで自分の名刺を取り出して、丁寧に差し出した。
「では、また今度にしてください。つぎに合うときは、なんとお呼びすれば良いでしょう?」
名前を尋ねると、彼女は心持ち眉を顰めた。
「あいにく、名刺を持っていませんが……。ヨル・ブライアと申します」
「どちらに住んでいらっしゃいますか?」
「……どこが私の居場所といえるのでしょうか」と、悲しげな声でいったが、すぐにきっとして、「また、どこかでお目にかかることがあると思います。今日はこれでおゆるしください」
頭を下げると、すっといってしまった。ロイドは暫くの間、呆然としてそこに立ち尽くしていた。