第3話
それから二週間後、母は帰ってきた。
お父さんは捨てられても、あんたのことは捨てられなかったわね。
母は私を抱きしめながら、そう言った。母の匂いは出かけたときと、何一つ変わっていなかった。
そして、あのときあなたが私のことを逃がそうとしなかったら、私は戻ってこなかったかもしれないと続けて、少しだけ泣いた。
父は何もなかったように母を受け入れた。母は職場をスーパーから小さな鉄工所へと移した。父は相変わらずの生活をしていた。
「あの男の人は?」
幼かった私は車を運転していた男のことを母に聞いた。
「さあ」
母は笑って答えてくれなかった。
それ以上聞くこともできなかった。
一か月もすると、母の駆け落ち騒動なんてなかったかのように(実際、その期間も短かったのだが)、それまでと変わらない暮らしが戻ってきた。
それから一年ほど経った頃、父があっけなく死んだ。
パチンコ屋に行こうと信号を渡っているとき、信号無視で突っ込んできたバスにひかれたのだ。
父は意外にも死亡保険に入っていた。
パチンコで勝った金や母にせびった金で月々の保険代を払っていたらしい。
私たち親子は三千万円という大金を手にした。
母は保険のことを知り、声をあげて泣いた。幼い私は母のそばに寄り添うことしかできなかった。
十年ほど経った頃、母に涙の理由を聞いてみた。
「あのときの涙って何の涙だったの? 感動の涙? 安堵の涙?」
母はう~んと首を捻って考えてから言った。
「後悔の涙かな」
「え? 後悔? なんの?」
「もうちょっとお父さんに優しくしとけばよかったかなって」
「えー、嘘。それはないでしょ。父さん、結構ろくでなしだったよ。暴力とかはなかったけど」
「そうなんだけど、でもさ、最後の最後であんな優しさを見せてくれたわけだし」
「保険金のこと?」
「そう」
「まあ、それを言ったらそうかもしれないけど」
「自分には未来がないって思いながらも、家族の未来は捨ててなかったってことでしょう」
「そうなの、かな」
「そうなのよ。いろいろうまくいかなくなって崩れちゃったけど、あの人ってやっぱり優しくて、私たちを大事にしててくれたのよね」
「まあ、母さんがそう言うならそうかも」
小学生だった自分には見えなかったもの、わからなかったことが多かったはずである。
納得いかないところはあったが、私は母の意見に同意した。
父が三十八歳でなくなったとき、母は三十六歳だった。