第16話
坂をゆっくりと上る。空に月が浮かんでいた。
りんちゃんが二人の家に来て、一か月が過ぎた。私と拓郎くんは、志野さんが家に居る時もセックスするようになった。もちろん声を殺してだ。
それは、スーパーからの帰り道だった。私は、周囲に誰もいないことを確認し、隣を歩く拓郎くんの手を持ちあげた。
彼はうれしそうにその手を握り返す。
少し歩いたら、周囲に誰かいないか、二人できょろきょろ視線を巡らす。誰もいないことを確認して、また進む。
そうやって安心すると、ぎゅっと拓郎くんの手を強く握る。にやりと笑ってまた拓郎くんが手を握り返してくる。
これの繰り返し。幸せの繰り返し。
「勇輔さんって、あれかな、ピーターパン症候群ってやつ?」
唐突な質問である。拓郎くんはいきなり思っていたことを口にしたりするようになった。慣れたという証拠だと思って、そんな彼を受け入れている。
「何それ? 大人になりたくないってやつ。そんなことないよ。俺、年とるの怖くないもん。なんでそう思ったの?」
「一人称がね、ちょっと、おかしいかなあって」
「一人称? 俺とか私とか?」
「そう。それがブレすぎるなって。いろいろ使うでしょ、勇輔さん、自分に対して。私、俺、僕・・・」
「僕って使うかな。でも、私とか俺は使うから、言われてみれば統一してないね。でも、皆がそうだと思ってた。大人になればなるほど、一人称は増えていくもんだって。そして、TPOによって使い分ける」
う~ん。思い当たるところがあるのかないのか、拓郎くんが首をひねる。
「そっか。そうかもしれないね」
「拓郎くんはずっと僕だね」
「だね。他には使わない」
「年代の差もあるのかな」
「そうかもね」
拓郎くんが握っていた手をぶんぶんと振る。
「やめてよ」
「ふふん」
拓郎くんがいたずらに笑ってみせる。そんな子供みたいな顔もだんだん見慣れてきた。
「最初は私って言ってたね、俺」
「そうだった、そうだった。最初のころは私って言われてた。距離があって、悲しかったな」
「仕方ないじゃん。最初は、こんなふうになるなんて夢にも思わなかったもん」
「そうなんだ」
「そうだよ。だから、オフィシャルな私だったの」
「でも、今は俺」
「そうだね」
「Hしたから?」
ぎょっとして周囲を見る。誰もいない。
「そんなタイミングで切り替わった?」
「いや、もっと前に切り替わってたけど」
「じゃあ、なんでそんなこと言うの? びっくりするじゃん」
「びっくりさせたくて言ったんだもん」
拓郎くんが馬鹿にしたように鼻で笑う。
「ふんっ!」
握っていた手を思いっきり振り払う。
「もう止めるんですか、手つなぎ?」
「もう終了~」
拓郎くんが周囲をきょろきょろと伺う。
「誰もいませんよ」
言いながら、こちらへ手を伸ばす。私はそれをパチリと手の平ではじいた。
「ケチだなあ」
言いながら、拓郎くんは私の半歩先を楽しそうに歩いていく。
その位置関係のまま二人で歩いていく。
スーパーのビニール袋のシャリシャリした音が強くなる。坂のうえのほうにくると風が強くなるのだ。
足を止めて、後ろを振り返る。
月が浮かんでいる。大きな丸い月が。坂を上ってきたため、空だけでなく海と陸も見える。
月の柔らかい卵色の光が海面と海に近い一帯の家屋をほんのりと照らしている。
高い建物はない。低い建物が海沿いにひしめき合うように立っている。いつかの、何かに似ている。
ああと勇輔は思いあたる。
母と、父と過ごしたあの町にも海があった。田んぼの間を歩き、小さな山を越えると、砂浜が広がっていた。その先の海は、もっと遠くまで円形に広がっていた。
懐かしい。そう思うと同時に顔がゆがむ。
明るさの欠如した、子供にとっては窮屈だったあの生活。辛いことのほうが多かったと認識しているのに、どうしてか泣けた。
私の変化に気づいて拓郎くんが足を止める。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。今が幸せすぎて」
大人になった今、いろんな人の気持ちがわかる。
逃げそうで逃げれなかった母、夢に逃げられた分、母を逃がすまいと必死だった愛情表現が下手な父。
静かにいつまでも母に寄り添った店長。
みんなみじめだったり、心震えていたり、哀しかったり、後悔したり、誰かとの未来を夢見たり、肩透かしをくらったりしたのだろう。
幼いころは右往左往する大人が愚かだと思っていた。でも、そうではなかった。
愚かだから魅力的なのだ。一生懸命だから。そのことが誰かをひきつけてやまない。
「あま~い」
拓郎くんが声を張り上げ、笑う。照れ隠しの笑いだった。
「うるさいよ。子供か」
「子供じゃないよ。ズルムケだし」
「ズルムケは俺。卓郎くんはどっちかってゆーと・・・」
「うるさいよ」
拓郎くんが私よりずっと大きく厚く、みずみずしい肩をぶつけてくる。
思わず、本気でふらついてしまう。
「ごめん、ごめん、大丈夫?」
拓郎くんが再び私の手をとる。
「うん、ぜんぜん平気」
学生に戻ったようなじゃれ合いをして、でも、一緒に生活すべく買い物もして。
遊びと責任がないまぜになる大人の恋はどうしてこんなに楽しいのだろう。
ふらついた足元を立て直し、二人でまたゆっくりと歩き出す。背中にじんわりと月の温かさを感じた。
「ずっと、手をつないでてね」
白く浮かんだ月のせいか。欲望が口から垂れ流しである。
「ずっとかあ、うーん、ずっとは難しいな」
そうだね、ずっとは難しいね。
拓郎くんは照れて笑っている。そんな彼を見てもう一度思う。
ずっとは難しいね、と。
それはわかっていた。本来、拓郎くんはいろんなことを自分で組み立てていくタイプだ。
自分でリードしたいタイプだ。だから私にも積極的にアプローチしてきた。
そんな拓郎くんは、誰かを育てる恋に向いている。
自分より年上の男と横並びに歩くような恋愛は彼にとってベストではない。
志野さんが言っていたように、拓郎くんは失われた光景を再現しているのだろう。
少年期に得られなかった、家族の風景を。
だから、いつかこの手を離して、誰かと結びなおすのを認めてやらなければならない。拓郎くんがそれを望むのなら。
誰かに結びなおしてあげなければいけない。
どんなにつらくても。
もし、その時が来たら、志野ちゃんが一緒に泣いてくれるのだろう、きっと。そんなふうに拓郎くんを失っても、私の手の中に家族のかけらは残る。
拓郎くんがうれしそうに笑いながらこっちを見る。
その焦らしてるような笑いがほんとうに好きだと思う。好きになったのだ。
好きになって、そして、どうしようと戸惑っている。
「うっそ。ず~っとつないでるよ」
いま、この瞬間も戸惑って、恐れおののいている。
得たものが大きければ大きいほど、人はそれをいつか失うことを想像し、おびえてしまう。
こんな気持ちを抱くことなんて、もうないと思っていたのに。
「志野さん、お腹すかせてイラついてんじゃない?」
「あ、今、照れてごまかしたでしょ?」
「そんなことないよ」
「あー、もう、かわい~。おじさんなのに、かわい~」
「うるさいよ、自分もおじさんじゃん」
「まだです~、まだ大丈夫です~。生徒たちが三十五からは絶対におじさんだって話してるの聞いたし」
「三十五? 設定高いな」
「だから、あと三年ありますー」
「うるさいよ。さっさと帰るよ。りんちゃんも志野さんも待ってるし」
繋いでいた手を離し、ゆっくりと駆け出す。すぐに追ってきた拓郎くんが私の手をつかんで横に並ぶ。二人とももう周囲を伺ったりしなかった。
湿った少し強い風が吹いて、二人の足を止める。振り向くと、月が少し移動していた。
「さっきはずっとつないでてって言ったくせに」
「言ったよ」
「自分から離すなんて」
「ごめん」
「いいよ」
拓郎くんが私を引き寄せる。少しの間、ゆるく抱き合う。
薄い潮の香りがした。
その匂いは拓郎くんの汗の匂いに少しだけ似ていて、だから一粒でも逃したくなくて、私は大きく鼻から息を吸った。