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My New Family  作者: 梅春
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第14話

 墓地に行くのは緊張する。

 母が亡くなったことを、改めて思い知らされるからだ。

 母は生前自らがそうしたいと口にしていたように、ぽっくりと逝った。

 ほとんど闘病生活はなかった。

 膵臓がんだった。膵臓がんは見つかりにくいガンだそうだ。でも、末期になるまで見つからないということはないだろう。

 母は体の異変に気づいていただろうし、相当我慢もしていたと思う。病院の先生は「こんなになるまで」と呆れていた。

 母はあの今はすっかり古くなった団地の部屋で、毎朝私を送り出し、夜は迎え入れた。その繰り返しを手放したくなかったのだろう。

 その気持ちは私にもわかる。

 叫ぶような幸せな瞬間は私たちにはなかったかもしれない。でも、春の穏やかな小川を心地良く揺れながら流れていくような幸せを私たちは持っていたのだ。

 墓石の前にしゃがみ込んで、母に語りかける。

 新しい職場で働いていること、新しい友達ができたこと、りんちゃんのこと・・・一方的な独白は母に届くだろうか。

 その内容は母を落胆させたり、慌てさせたりはしないだろうか。

 死ぬと人は器が大きくなったり、寛容になったりするだろうという勝手な思い込みのもとに、私はこの数か月にあったことを報告する。

 自宅の仏壇には、家に居れば毎日手を合わせているので、そこまでする必要もないとはわかっていたが、私は母の墓の前からなかなか離れられなかった。


 自宅から電車で一時間半の場所にある墓地は、緑の香りに包まれていた。

 母と横浜に移り住んだ頃、団地の周囲はこんな匂いに包まれていた。いつから、その匂いが変わったのだろう。

 思い出そうとしても、勇輔には思い出せない。自らの成長とともに流してきたものが、改めてたくさんあることを思い知る。

 墓地の入り口へ続く長い坂道を下っていると、年老いた男がゆっくりと、しかし年の割にしっかりとした足取りで坂道を登ってきた。

 勇輔はゆっくりと頭を下げて、すれ違う。男もうなずくように頭を下げた。

 母より高齢のようだ。老いて背は少し丸まってはいたが、男の体はがっしりと大きかった。

 勇輔ははっとして振り返る。

 男は足を止めて、こちらを見ていた。

 男は、ゆっくりと深く、頭を下げた。勇輔は来た道を戻り、男の前に立つ。

「母の墓へですか?」

「はい」

「ありがとうございます」

 勇輔は深々と頭を下げた。

 男は母と駆け落ちしようとしたスーパーの店長だった。長い時間が経ってはいるが、勇輔が男を見間違えることはない。何度も思い返した男だったからだ。

「福岡から、わざわざ?」

「いえ、私も、ヨコハマで暮らしていました」

 男が申し訳なさそうに言う。

「そうだったんですか」

 いつからと聞きたかったが、止めた。

 母は一人ではなかった。女として。それでいいではないか。

 男は自分たちと一緒に上京してきたのかもしれない。そうでないかもしれない。いつからでも、もうかまわない。恨めしく思う要素はない。

 母は母の勤めを十二分に果たしてくれた。その証拠にこの男の存在を自分は感じたことがなかったではないか。

 母の愛情を、この男と競ったことがないのは、母と男が私のことを誰よりも尊重してくれた証なのだ。

 母と目の前の男に対する感謝で胸が熱くなる。自分は確かに二人に守られていたと思う。

 勇輔は何も言えなくなった。

「なんだか、雰囲気が変わりましたね」

「え? そうですか」

「なんだか、楽しそうだ」

 そう言って男が笑った。優しい笑顔だった。一緒に暮らしても良かったのに。勇輔は空の母につぶやく。

「仕事を変わったせいですかね」

「そうですか。楽しい職場なんでしょうな」

「そうですね、とっても」

「それは良かった。では、これで・・・」

 男が再び頭を下げようとしたのを止めるように、慌てて勇輔は口を開く。

「最近小説を書いているんです」

「え?」

「ずっと書きたいと思っていて」

「そうですか」

「でも・・・結構、難しいですね」

「そうですか」

 男が寂しそうな顔になる。

「あなたの、お父さんも物書きでしたよね」

「はい」

「そうですか、小説ですか」

 父の存在を思い出したせいか、男の顔から明るさが消える。

 そうじゃない。そんな気持ちにさせたいんじゃない。責める気持ちはかけらもない。

「ほんとはずっと小説家になりたかったんです。でも、うちの父は元新聞記者のろくでなしで。作家になるって仕事を辞めて、小説も書かずにお酒におぼれて」

 男はうんうんと優しい目でうなずいている。

「だから、言えなかったんです、母には。こんな夢」

「そうですか。でも、もういいんじゃないですか?」

「え?」

「お母さんも、もう許してくれると思いますよ」

「そうでしょうか」

「ええ」

 男がにこりと笑った。大きな笑顔だった。ああ、母はこの顔が好きだったんだろうなと、母が男との長い関係と繋いできたその理由を知る。

「ずっと母と居てくれて、ありがとうございました」

「え?」

「母をもっと早くにお渡ししておくべきでした、あなたに」

「いや、それは由美さんが望んでなかったから」

「いえ、私が母を縛りつけたんです。母の思うように生きることで母を縛り付けた。おそらく、もう捨てられたくなかったんだと思います。きっと、私、傷ついていたんです。平気な、理解のあるフリをしながら。ごめんなさい」

「そんな。こちらこそ、申し訳ない。その傷を作ったのはこの私だ」

 男が閉じた唇をひっぱるように、歯を食いしばった。真剣な表情になると、急にその表情は影に覆われた。

 私が母と二人で過ごしたと同じ時間、この人は一人だったのだ。

「それは違います。私は母を逃がしたかった。その気持ちに嘘はなかったんです。でも、母は戻ってきた。それで欲が出たんです。ならば、ずっと一緒に居たいと」

 母と父との三人の生活は地獄というようなものではなかった。でも、このままではみんなダメになる。幼い私は焦れていた。

 そして、助手席のこの男を見たとき、母を行かせてやりたいと強く思った。

 男がにこりと笑う。

「私も一緒に居れましたよ。同じ職場だったこともある。デートもたくさんした」

「そうですか」

「妬けますか? 由美さんと私を許せないと、思いますか?」

「いいえ、全く。母に女の幸せがあって、ほんとによかった。そう思います」

「そうですか」

 男が勇輔の前で深く腰を折る。

「ありがとう」

 勇輔も深く頭を下げたまま、言った。

「こちらこそ、長い間、ありがとうございました」

 二人はしばらくの間、そのままの姿勢で向かい合い続けた。


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