第1話
新しい職場に入ったら、新しい友達ができた。別段めずらしい話ではない。
その友達、拓郎くんが目の前で笑っている。彼は良く笑う。話もほど良くする。人の話も聞くし、自分の話もする。
ときには身を切って笑いをとりにきたりもする。そして、外さない。
そう、彼は朗らかで非常にコミュニケーション能力が高い。
振り返れば、いつも此の手のコミュニケーション能力が高い友達に助けられていたと思う。
自分自身は別段人付き合いが得意というわけではないのに、こういった友達に恵まれるのだ。
彼らはないものねだりで私に近づいてくるのだろうか。でも、彼らは皆、言う。
勇輔だって愛想いいじゃん、と。
そうではない。適当に笑っているだけだ。わりと根性の悪いことも考えている。
ま、いっか。人間関係は誤解で成り立っているものだし。
ということで、我ながら得な性分だなと納得している。
「これ、美味しいですよ。食べてみてください」
拓郎くんが手作り弁当から味のよく沁み付いたから揚げをくれる。
それをコンビニ弁当の器で受け止めてから、箸でつまみあげ口にいれた。
「うん、美味しい」
「でしょ~」
拓郎くんが極上の笑顔を浮かべるので笑い返す。
嘘のない微笑み返しだ。うまい。彼は料理も上手だ。
最近の若い子ってほんとにバランスがいい。なんでもできるし、かっこいいし、おしゃれだし、柔軟剤のいい匂いまでする。
「完璧」
拓郎くんがね。
「そこまでっすか」
拓郎くんはすぐに赤くなって照れる。スマートでそつのないタイプなのに、意外とデレスケなのだ。
そんなところもかわいい。
拓郎くんは十三歳下の三十二歳。ひと回り以上年下ということになる。
最初に彼を見たときは、思わず目を奪われた。テレビドラマに出ていても不思議ないぐらいのイケメンだったのだ。
背も高く、肩幅も広く、スポーツの香りまでする。
地味で文系っぽい人ばかりが積み上げられている鄙びた職場で、彼は明らかに浮いていた。
こんな地味な職場にも、こんな子が。そう思って、でもそこまでで彼への興味を失った。
同性への興味なんてそんなものだ。何かできる可能性があるわけじゃないし・・・
拓郎くんは隣の課で働いていた。接点はなく、席もわりと離れている。
つまり、なんの交流もなく終わる人だったし、そうなって当然の相手だった。
しかし、それだけでは終わらなかった。
彼とはやたらとトイレや休憩所で一緒になった。
サイクルが似てるのかな? 年はだいぶ違いそうだけど。あ、でも、こっちが二回トイレに行ってるときに、あっちは一回しか行ってなくて、そのタイミングが合うってのはありそうだなとか思って、テキパキと用を足し手を洗いトイレを出ていく拓郎くんの背中を見ていたりした。
そんなふうに納得していて、彼を見かけても、どこかで出くわしても、特段気にならないようになっていった。
しかし、時折拓郎くんからの強い視線を感じ、顔を向けると、彼はそうとわかるように目を反らした。
その頻度は日を追うごとにどんどん増えた。
ん? なんだろう?
当然、拓郎くんのことが気になるようになった。こっちも彼を見てしまう。
すると、離れた席からでもこっちを見ていたり、わざわざ遠回りして私のデスクの横を通っていたりしていることに気づいた。
これは、いったい・・・
思ってもぶつけられるような間柄ではない。
「気のせいといえば、気のせいだしなあ」
私は自分の気づきを曖昧にした。
そんななか、拓郎くんは近づいてきた。ある晴れた日のお昼だった。
外のテーブルでコンビニで買ったミートソースのスパゲティを食べていると、手弁当をぶら下げて彼がやってきた。
あれと思ってみていると、拓郎くんはぐんぐんと近づいてきた。目が合っても、今度は反らさなかった。
背の高い拓郎くんの一歩はほんとにでかくて、彼は、あっという間に目の前に来た。そして、姿勢よく立ったまま言った。
「あの・・・」
堂々とした態度のわりに、優しい声音だった。ちょっと安心する。
「はい」
「ここ、いいですか?」
昼食のため、テーブルの半分を使いたいということらしい。
「あ、はい」
とりあえず笑っておく。拓郎くんはほっとしたよう弁当を開いていく。
なんだろう、今後一緒に仕事をする必要が生じたのだろうか。それゆえに近づいてきたのだろうか。
最近の若者はほんとに抜け目がない。
勝手にそんなことを思っていると、目の前のハンサムくんの整った顔が余計に冷たく見えた。
沈黙が苦痛で口を開いてみる。
「いい、天気ですね」
これ以上ないほどありきたりなフリで、現状の気まずさをごまかす。
「そうですね」
拓郎くんが弁当を開ききる。
ほど良い大きさの弁当には、おかずが多めに並べられていた。炭水化物を少なめにしているのも若者らしい。野菜、肉、果物とバランスも色合いも良い。
売っていてもおかしくないクオリティ。まさかの弁当までくそおしゃれ。
「すごい・・・」
思わず本音が漏れる。
それほど拓郎くんの弁当は、良かった。キャラ弁とか、そういったものと違う、本質的なクオリティの高さを感じさせる弁当だった。
「そうですか」
拓郎くんがはにかむ。そんなゆるくほどけたかわいい顔は初めて見た。
彼は、職場ではいつも整った顔を固くして働いている。皆、そうなのだが、整った顔の彼は冷たさが際立っていた。
弁当を持ちあげた彼の左の薬指にはばっちりとおしゃれなシルバーのリングがはまっている。
自分の手にあったモノをしっかりとチョイスできている。
奥さんの趣味がいいのだろう。いや、違う。それはきっと彼も意見を出して選んだもののはずだ。なんとなく、わかった。
彼の服装にはいつも統一感があったし、リングもその流れに沿っていた。
中年男がエンゲージリングを付けているのとは、もう、なんだか全然違う。
つけさせられている感がないのだ。積極的だし、自発的だし、おしゃれだった。匂い立つようだ、彼のセンスが。
思いながらも、拓郎くんの手がでかくて、ついじっと見てしまう。厚くはないのだが、細くて長くて広かった。弁当箱が華奢に映る。
「奥さん、料理上手で趣味もいいですね」
そう言えば、うれしそうにさらに笑うかと思っていたが、彼の反応は違っていた。
「いえ、これ、僕が作ったんです」
彼は照れたように言って、笑った。
「あ、そうなんですね」
かっこよくて家事もできる旦那。倍率、一万倍。
きっと彼の嫁もまだ若くて働いていて、美人で優秀で、だからこんな競争率が高そうなイケメンを旦那にできたんだろう。
優秀な夫婦~。人の幸せ~。なんだかしらける~。
「これ、良かったら食べます? 今日のは特別うまく焼けたんです」
彼が卵焼きをつまんでさわやかに言う。
初対面なのに結構踏み込んでくるなという警戒心と初対面なのに玉子焼きなんていいの~という遠慮がないまぜになる。
どうしよう。
視線の先では、高く昇ったお日様の光を浴びて、黄色い卵焼きの表面の油がキラキラと光っていた。
文句なしにうまそう。
「いただきます」
「じゃあ、はい、あ~ん」
え、嘘でしょ?
しかし、拓郎くんは言葉通り、こっちの口元に卵焼きを運んでいる。「いただきます」と応じた手前、もう引き返せない。
それに人間とは不思議なものだ。
「はい、あ~ん」と言われると、自然と口を開けて受けとりにいくものだ。
拓郎くんが卵焼きを口内にドロップしてくれる。そして、箸を引くとき、それがねっとりと私の唇に触れた。
それらはさっきまで拓郎くんの口の中にあったものだ。
これって、間接キス?
中学生のようなことを考えながら、黄色くて美味しそうなやつを嚥下する。それは甘くて、思ったよりもずっとうまかった。
「うん、うまい。甘くて、好きなやつです」
「良かった~」
拓郎くんが大きく笑う。うれしそうで、幼くて、なんだか可愛かった。
整いすぎて冷たかった彼の印象を吹き飛ばすような笑顔だった。
やだ、キュンキュンってしてる・・・
年が年なので、心臓のほうが心配になる。なんか病気かも。
拓郎くんが大きく口を開け、自身の食事に戻る。
意外と男性的だ。その様子にまた、キュンとなった。今度はもっと果汁たっぷりな感じ、ジュンって感じだ。
怪しい。どうした、俺? そっちの趣味はないぞ。ブレたこともふらついたことも一度もない。
ふと我に返り、急にひと目が気になる。周囲には誰もいなかった。
空いているからいつもここに陣取っていたことを思い出す。
良かった、誰にも見られてない。
新しい職場はたくさんの若者がうようよと動き回る職場なので、余計なことは知られたくなかった。
仕事では接点のないこんなイケメンと二人でいるところを見られたら、やっかみ混じりで何を言われるかわかったもんじゃない。
しかし、この状況がいいかといえばそうではない。ひと目を避けて二人で・・・そうとられかねないシチュエーションである。
そこまで考えて、あれ、これってそーゆーこと? あれ、この人って? と思う。
いやいや、まさか、嘘でしょ。
指輪してるし、自分は平凡な中年男だし、おっさんずラブが流行ってるからって、現実にはあり得ない。
見たことも聞いたこともないし、求めてもいない。
目の前の拓郎くんはますますワイルドに飯をかきこむ。
意外にもオスって感じ、ああ・・・って、ギャップにやられてどうする。
気づくといつもこっちを見ている彼、やたらとすれ違っていた彼、トイレでひとつ飛ばしで(絶対にすぐ隣には立たなかった)よく並んだ彼。
たくさんの彼が頭で踊る。
どーゆーこと? そーゆーこと?
ぐるぐるとパスタを巻いて口に含む。さっきの卵焼きの風味が一気に安っぽいミートの濃い味にかき消される。
もったいない、もったいない、消えないで。
拓郎くんは意外に大きな口を開けて食事をしているが、おかしな音も出さなければ、箸遣いもきれいだ。
きっと育ちがいいのだろう。お金の匂いもする。
これもこれで玉の輿。ってゆーか、玉って・・・どっちなの? そっちなの?
この年になり、結婚もしてなければ一人で過ごす時間が多いのは当然で、それには慣れていたし納得もしていたし、自分で選んだものだと思ってた。
でも、やはりどこかで人の温もりや会話に飢えているところもある。
若い時は、ずっと誰かと過ごしてきて、そんな人間関係が少しずつ削られ、秘かに潮が引くように皆と離れた。気付かないうちに温かいものは、手元からすり抜け、どこかに流れていった。
それはそれでいいし、代わりに得た自由の野放図さに笑みがこぼれる瞬間も少なくない。
それは若いときには感じることができなかった、じんわりとした穏やかで静かな充実だ。寂しさに決して振り回されない、強くどっしりした鈍感さでもある。
でも、それだけでは人間の欲望は終わらない。なんといっても、私たちは動物なのだ。
年をとり、突き上げてくるような欲求は失せた代わりに、じんわりとした人肌のぬくもりや何気ないコミュニケーションを求める気持ちは却って強くなっているように思う。
何かに寄りかかりたい、戻りたい、帰属したい、そんなコロニーを求める心は一人を楽しむ今でも決して消えないし、忘れた頃に戻ってきた性欲で、燃えるように人肌が恋しくなり、自分に裏切られたと思う夜もなくはない(しかし、やっぱり多くもない)。
ということは、私はいま、やはり新しい経験をしようとしているのだろうか、したがっているのだろうか。
こういった白黒のまったくつかない、曖昧な気持ちしかないときは、流れに身を任せるしかないのだろう。
源流である拓郎くんは、あっという間に自作の弁当をたいらげ、こちらを見ていた。
じっと、真っすぐに。
やはりそこには隠し切れない恋心が浮かんでいた。
それはいつも女性の甘いシャンプーの香りでどんぶらこと運ばれてきたものだったが、今回は少しソリッドな匂いとともに流れてきたようだ。