天使のトランペット
ねえ、おかあさん。あなたはしあわせだったのかな。
告別式の朝、わたしの住む南方町に梅雨明けが宣言された。
今日は絶好のおでかけ日和です。熱中症に注意して、良い週末を送りましょう。
天気予報士はにこやかにそう告げた。
半袖の喪服にして正解だったと思う。そうでなければ、この暑さにはきっと耐えられなかった。
わたしは首筋にハンカチをあてがいながら、参列者が焼べる焼香の煙を眺めていた。
その向こうに母の遺影が飾られている。
昨年の春、弟の紘の就職祝いで撮影した家族写真を、業者さんに拡大してもらったものだ。
意思の強さを感じさせる切れ長の眼、不敵なほほえみ。
それはまさに妖艶の一言で、50歳を超えているようにはとても見えない。
「女性はね、美しく育つの」
それが母の口癖だった。
オードリー・ヘップバーンという女優がお気に入りで、「わたしは綺麗」と鏡に映る自分に言い聞かせて美女になった逸話を固く信じていた。
「美しい言葉で育った植物は、きれいな花を咲かせるものよ」
母は言霊を信じていた。文字通り心から。
やがて母の信念通りに愛らしく育つ弟を見て、思春期真っただ中にいたわたしは口を尖らせた。
おかあさんの言いつけを守っているのに、なんでわたしは美しく育たないの。
母はそんなわたしを一笑にふした。
「美香だって美しいわ」
「そんなことない」
「あるわよ」母は断固として譲らなかった。
「自分に自信を持ちなさい。あなたには素晴らしいトランペットの才能だってあるじゃない。わたしが思わず嫉妬しまうほどの、ね」
そんなのうそだ、親馬鹿だ。
わたしはまともに取り合うのをやめて、高級ファンデーションを拝借してお肌の保湿にいそしんだものだ。
「姉貴」
思い出に浸っていたわたしを現実に引き戻したのは紘だった。
お通夜で泣き濡れたせいか、まぶたは腫れぼったく頬は痩けている。
まだまだ垢抜けないリクルートスーツ。
希望に満ちた新生活の一張羅が、こんな場面で役に立つなんて、ひどく物悲しい。
「母さん、しあわせだったよな」
ほとんど泣いている声だった。
わたしは親戚のおばさんに用意してもらった数珠を握りしめた。
ご近所さんから行きつけの居酒屋さん、それから母の仕事場の人々が沈痛な面持ちで悼んでくれている。
これだけ多くの人たちが見送りにきてくれたのだ。
きっと幸せだった。そう信じたい。
「結月さん、乳がんだったんですって」
そんな心ない言葉がわたしの耳に飛び込んできたのは、紘が親戚に呼ばれて席を外した矢先のことだ。
最前列を見遣ると、黒いレースの被り物をした見慣れない老女三人組がひそひそ話をしていた。
田舎の自治体に所属していると、名も知らない人々も参列に並ぶ。
「検査で見つかったときには手遅れだったんですって」
「お気の毒ね。旦那さんに先立たれて大変だったのに」
「紘くんも社会人になったばかりじゃない。しかしあれね、彼は今風の可愛い顔をしているわ。どこの大学なの」
「たしか隣の県の公立大学で経済学部だったかしら」
「わりとむずかしいらしいわね」
こんな人前で家庭の話をされるのは、あまり気持ちの良いものではない。
どうか、やめてくれませんか。
抗議の視線にはまったく取りあってもらえず、それどころか、続く言葉に背筋が凍った。
「結月さんの旦那さん、本当は事故じゃなくて、自殺だったんでしょう」
前髪で隠している左額の傷が疼いた。
胸のまんなかからいやな感覚がじわりじわりと広がり、手足の感覚がうすらいでいく。
わたしは立っていられず、すぐ後ろにあったパイプ椅子に座り込んだ。
「おい美香。大丈夫か」
「へ、平気よ。ちょっと眩暈がしただけ」
夫の樹が背中をさすってくれたおかげで、人心地につくことができた。
わたしはやおら立ちあがる。
告別式の挨拶を徹夜で考えたのが、堪えたのかもしれない。
だけど喪主はわたしだ。倒れるわけにはいかない。
「みなさま、お集まり頂き、まことにありがとうございます」
そこで告別式のアナウンスが響き渡った。お喋りがやんで心の底からほっとした。
やがてお坊さんの読経から説教、そして喪主であるわたしが母に向けて手紙を読む番となる。
わたしは会場のまんなかに移動してスタンドマイクに向き直った。
母の棺は白い百合の花に囲まれ、やわらかい光で照らされていた。
「おかあさんへ。こんなふうに手紙を書くなんて、夢にも思いませんでした」
わたしが思い浮かべる母は、いつも颯爽としていた。
舞台女優を目指していたこともあり、歩き方や身のこなし、それからご飯を食べる所作まで完璧だった。
そんな自慢の母も可愛い失敗をしでかしたものだ。
「高校生のお昼休みに2段弁当を開いてみたら、どっちもご飯だったことがあったね。とても寒い冬の日、ガス代を払い忘れて氷みたいに冷たいシャワーを浴びたこともあった」
会場からあたたかな笑いが起きた。完璧だった母のおっちょこちょいな一面。
それも演技の一部だったんじゃないの。そう尋ねるのは、さすがに意地が悪いか。
わたしは一呼吸おいて、母の遺影を見据えた。
「おとうさんがいない日常は、きっと言葉じゃ言い表せない苦悩や葛藤の連続だったと思います。だけどおかあさんは女手ひとつでわたしたちを育ててくれた。心から、ありがとう」
紘が俯き加減になるのが視界の隅に映った。会場からもすんすんと鼻を鳴らす音が聞こえる。
わたしは純白の百合を眺めながら、生前の母が花屋さんで百合を勧められたときの断り文句を思い出した。
「わたしに、百合の花は、似合わないわ」
百合の花言葉は、たしか『純粋』だっけ。
母はやはり、不世出の女優だった。
☆
告別式が終わり、火葬場へと向かうことになった。
多くの人々に見守られながら、母が眠る棺は霊柩車に乗せられる。
助手席に座る役は紘に頼んだ。
遺影を胸元にぎゅっと携える姿を見て、それが正しい選択に思えた。
参列者に向けてお別れの合図が鳴り響く。
その音色はトランペットに似ていて、音階は聞いたままの『ファ』だった。
わたしと樹はローンで買った軽自動車でリムジンの後ろをぴたりとついていく。
「おつかれさま」樹は労いの言葉を掛けてくれた。
「感動的な挨拶だったよ」
「……ありがとう」
緊張が解けて疲れがどっと押し寄せてきたのか、眠気が足元からじわりじわりと立ち上ってきた。
会話ですら気力がいる。すこし休みたい。
「ちょっと眠らせて」
「どうぞ」
信号や渋滞に捕まらなければ、火葬場まで10分とかからない。
わたしは窓に額を預けて仮眠をとろうとした。
身体は休息を求めているものの頭は環状線のようにおなじ場所をぐるぐる回り続けている。
外界ではしあわせそうな家族がおおきなリュックを背負い、ピクニックを満喫していた。
眼を瞑ると浮かんでくる記憶。振り切れない過去。
それはいまでもわたしの現在をじっと見つめている。
「ねえ」
「なんだ、起きていたのか」
「あの人たちの会話、聞いていたでしょう」
「だれのこと」
「最前列で話をしていた人たち」
「ああ、あの無神経な人たちか。どこにでもああいう連中はいるから、気にしたら負けだよ」
「……こう言ったら驚くかしら。おとうさんは事故死どころか、自殺でもなかったって」
ハンドルを握る彼はまっすぐ見据えたままだった。
いつもとなんら変わらない様子で耳をそばだててくれる。
だからこそわたしも自然体で、紘にも喋ったことがない我が家の秘密を打ち明けることができた。
「わたしのおとうさんね、暴力を振るう人だったの」
昨日の晩御飯すら思い出せないわたしなのに、20年以上前のことを鮮明に覚えているのは、どうしてだろう。
わたしの記憶に宿る父。
その人は細身で背が高くて温和な顔つきをしている。一見すると優しそうだけれども、その実、家のなかでは暴君のように恐ろしかった。
気性が荒く怒鳴りつけられることは日常茶飯で、髪の毛を鷲掴みにされることもたびたびあった。
何事もなく一日を終えられるだけで神様に感謝した。
きっと仕事がうまくいっていなかったのだろう、家計簿を厳しい顔で睨んでいる両親をなんども目撃した。
喧嘩が絶えない日々で、部屋の隅っこで泣いている紘におしゃぶりを突っ込みながら、わたしも一緒に震えたものだ。
その日は特にひどかった。
かくれんぼで鬼に見つからないようにするみたいに、自分の部屋から居間をのぞいた。
仁王立ちした父の背中は汗びっしょりで、握りしめられた左拳には蛇みたいな血管が浮かんでいた。
母はダイニングチェアに座って頭を抱えていた。
父を睨みあげたかと思うと「ぶつけたければ、ぶつけなさいよ」と唇を真一文字に結んだ。
父は左手に食器を握っていた。結婚祝いにもらった母のお気に入りの小鉢。
青い基調で植物の模様がキレイなやつだ。
耳を真っ赤に染めた父はおおきく振り被るなり、床に小鉢を叩きつけた。
すごい衝撃と金属音で部屋が揺れた。
小鉢は無残に砕け散り、父は床をどすどす踏み鳴らしてアパートの扉を乱暴に閉じた。
母は空気の抜けた風船みたいに身体をちいさくし、しばらくすると破片を拾いはじめた。
そこではじめてわたしの存在に気づいた。
「見ていたの」
わたしは首を振った。絶対に認めちゃだめ。
なぜなら母はそのとき、ほほえみながら泣いていた。
母が泣いているのを見たのは、それが最後だった。
ただでさえ不安定だった我が家は、坂道を転げ落ちるように崩壊した。
父の暴力の矛先が母にも向けられるようになった。
母は長袖長ズボンを手放せなくなった。
台所に並ぶお酒の瓶がみるみる増える。
どれだけ換気してもアルコールとタバコの匂いが消えない。
ご飯が食べられない日が何日も続く。
紘もなかなか泣きやまなくなった。
うるさい、すこし黙って。
あやしてもあやしてもわめくばかりで、紘の首に手を添えようとした自分に気がついてぞっとして泣いた。
「泣かないで、わたしの天使ちゃん」
母はわたしたちをあやしながら子守唄を歌ってくれた。
色々な才能に恵まれた母も、音楽の神様には会ったことがないのか、お世辞にも上手とは言えなかった。
だけど鼻歌を聞いている時間だけは、暴力のこととか空腹のこととか、好きに外出できないことを忘れられた。
そうして気分が落ち着くと、わたしと母は紘を挟むようにして川の字になり、植物図鑑を眺めた。
春夏秋冬に咲く色とりどりの花々。
それらは通学路でもひょっこり顔を出し、遊園地や動物園と違って、お金も掛からずに楽しめた。
「植物って強いのね。つらいことにもじっと耐え、地面にしっかりと根っこを伸ばしていく」
母がぼそりと呟いた言葉がひどく印象的だった。
そして年中さんのとき、朝顔を育ててみようという宿題が出た。
母は父に頼みこんで、植木鉢と肥料、それからコーヒー豆みたいに真っ黒な種を買ってきた。
わたしは朝顔を育てたい気持ちよりも父の機嫌を損ねる恐怖がまさっていた。
「無駄なものに金を使いやがって」
父の低い声がわたしの心の表面をざらりと撫でた。
身体中が冷たく硬まっていく。そんなわたしを母が強いまなざしで支えた。
「いいこと、美香。大切に育てましょうね」
暴力は人の思考回路までも支配する。
世界には黒い雲が立ち込め、2度と晴れることはない。導火線に火がつくことに怯える日々が永遠に続く。そう思っていた。
だけど解放の日は、突然訪れた。
わたしは久しぶりにだれにも起こされずに目が覚めた。
ズキズキと左額が痛む。手をやると指先にガーゼが触れた。
そうだ、昨日の夜、お酒に酔った父に絡まれて、机に額をぶつけたんだった。
お腹の虫がぐうっと鳴いた。
わたしは机の一番下に隠してある食パン袋を取り出してミミをかじった。
数日前のものでしけてしまって、口のなかがもそもそした。
家のなかは信じられないくらい静かで、わたしは朝顔にお水をやろうと立ち上がった。
ゆっくり居間をのぞいてみる。だれもいなかった。
テーブルには食器と酒ビンが散らかっている。
ベランダ側から風が吹いた。そこには裸足のまま柵の下を見下ろす母がいた。
どうしたのだろう。ぺたぺたとフローリングを渡って声を掛けるようとした。
「絶対に、来ちゃダメ」
その声はぴんと張り詰めいていた。ベランダ下から悲鳴が聞こえた。
どこからかサイレンの音が響いてきた。
その日が、父の命日となった。
「わたしが種をまいた朝顔はね、芽すら出さなかった。母は『水のやり過ぎね』って結論づけた。だけどそうじゃないと思う。朝顔の種には、幻覚作用がある」
「えっと、つまりだ。結月さんは朝顔の種を使って、旦那さんを事故死に見せかけて殺害した。そう言いたいの」
樹はあきらかに狼狽していた。無理もない。
わたし自身、なぜこんな根も葉もないことを考えているのか分からなかった。
父が誤って転落したと警察は判断したわけだし、アルコールの取りすぎで幻覚をみることだってある。
ちゃんとした食事を摂っていなかった影響もあるかもしれない。
だけど不審死した父と不世出の女優の母。そして芽すら出さなかった朝顔。
それらを結ぶと、キレイな一本の線になってしまう。
あまりにも出来すぎているほどに。
「いままで黙っていて、ごめんなさい」
「……そんなつらい体験をしたんだ、言えなくてあたりまえだよ」
樹はわたしの手を包むように握ってくれた。まるで守るように、鼓舞するように。
やがて窓の外に火葬場の門が見えてきた。
坂道に差し掛かると勾配で眼の焦点が変わり、わたしは窓に映る自分と対面した。
その透明な顔は鼻筋が低くて唇もうすく、あまり印象に残らない顔だちだった。
わたしは視線を逸らした。
気づいていたことがある。わたしが紘のように美しく育たなかった理由。
それは母のことを、心から信じることができなかったからだ。
朝顔が芽を出さなかった、あの日から。
☆
駐車場に車を停めて外に出る。
火葬場はとても見晴らしの良い場所だった。
紘は建物の入り口のベンチに背中を丸めて座っていた。
樹も誘ったけれど「ふたりで行ってきなよ」とほほえんだ。
その言葉の裏には、紘に対する気遣いがあるのかもしれない。
人懐っこい紘だが、樹にだけは、あからさまによそよそしかった。
そのことがわたしのおおきな気掛かりでもあった。
「お待たせ、行こう」
わたしと紘は揃って室内へと足を踏み入れた。
年配の係員に案内されるがまま、火葬炉にたどりついた。
コンクリートで打ちつけられた部屋の中央で、母はひとり眠っていた。
「点火スイッチは、どなたが押されますか」
乾いた空気に、その声はとても良く響いた。
わたしたちは顔を見合わせた。決めかねているのが表情だけで伝わった。
「喪主の美香さま、いかがでしょう」
わたしは促されるままに一歩踏み出して、おずおずと人差し指を伸ばした。
そのときだ。
「おれも」紘とわたしの肩が並んだ。
「おれも押したい」
紘が意見を通そうとするなんて珍しかった。
その両眼には強い意思が宿っている。
「それじゃあ、一緒に押そう」
店員呼び出しボタンをどちらが押すか。
ファミリーレストランでいつも喧嘩して、最後にはいつも一緒に押したよね。
母はその様子を見て「あなたたちが仲良くて嬉しいわ」とほほえんでいた。
きっとこの決断も、褒めてくれるだろう。
スイッチは拍子抜けに軽く、ガコンという音で点火の文字が赤灯した。
母が遺骨に還るまで1時間掛かるという。
わたしたちは入り口近くの待合室に戻ることにした。
結婚して実家を出てから、こうして紘とゆっくり話すのは久しぶりだった。
貧乏だったけれど楽しかった日々。
「ゴール直前で、まさか紐が切れるとは思わないじゃん」
「そうだね」
それは我が家では『幻の1位事件』と呼ばれている。
元陸上部だった紘が威信を掛けた体育大会、あと数歩でゴールというところで足がもつれて転倒した。結果、後続の人たちに追い抜かれて3位となる。
どうしたのかと足元を見たら靴の紐が切れていた。
その靴は、わたしのお下がりだった。
「ああ、これからどうするかな」紘は大袈裟肩をすくめた。
「姉貴は誘拐犯と一緒だし、我が家がばかみたいに広くなっちゃった」
誘拐犯。弟は樹のことをそう表現する。
わたしが嫁入りして実家を出たことを拗ねているらしい。
もしかしたら。
家族というものを最も大切にしていたのは、母でもわたしでもなく、紘なのかもしれない。
「でもさ。悔しいけれど、あいつはいい奴だ。さすがは姉貴の惚れた男。今回の件で、おれたち家族のために色々手配してくれたもんな」
「だったらこれからは、樹と仲良くしてね」
「前向きに努力させて頂きます」
まるで政治家さんの答弁みたいで思わず笑ってしまった。
紘もくっくと笑みを転がし、机の下から黒い革ケースを抱えてガラス机に置いた。
片手で持てるように取手はついているが、かなり大きい。
「なにこれ」
「結婚祝い。遅れたぶんだけ、飛びっきりのやつ」
「気を遣わなくて良かったのに」
「開けてみてよ。びっくりするぜ」
「なにそれ、期待するじゃない」
紘から手渡されたとき、心臓がどきんと脈打つのが分かった。
身に覚えのある重さ。まさか、これって。
わたしは反射的に紘を見た。
そこには泣き笑いの表情があった。母のいつしかの面影が重なる。
紘はやはり、おかあさん似だ。
「母さんをこいつで送り出してよ。姉貴の演奏を着信音にするくらい、好きだったんだから」
紘がわたしにくれたもの。
それは黄金に光り輝くトランペットだった。
☆
おかあさん。
なあに。
再婚とか、考えたことないの。
いきなりなあに。美香もおませになったわね。
からかわないでよ。紘とふたりでさみしいんじゃないかって、心配したんだから。
ふふ、ありがとう。でもその必要はないわ。可愛い天使ちゃんがそばに居てくれるもの。
おかあさんはおとうさんのこと、どう思っているの。
そうね。いま思い出しても、どうしようもない人だけれど。
……愛しているわ。
☆
わたしは丘のうえに立ち、雲ひとつない夏空を見上げた。
俗世から解放された白い煙は、どこまでも澄み渡る空にのぼっていく。
かつてわたしだけを連れて、父の墓参りに出かけたことがある。
共同墓地のようなその場所は日当たりが悪く、ブンブンうるさい虫たちが耳のまわりをかすめていった。
蒸し暑いし帽子のゴムがむずむずして勝手悪いしで、はやく家に帰って冷房の効いた部屋で麦茶を飲みたかった。
「お花は。なんでお花を買わなかったの」
「それはね。本当に送りたいお花が、この世にはないからなの」
「どういうこと」
わたしは地団駄を踏んだ。足元に落ちていた小枝がパキッと砕けた。
母はわたしをぎゅっと抱きとめながら、バケツに汲んできた水を苔むした墓石に掛けた。
「世の中にはね、知らなくていいこともたくさんあるわ」
大人になって分かったことがある。花言葉で唯一存在しないもの。
それは『贖罪』という概念だ。
なにが本当で、なにが嘘だったか。いまとなっては分からない。
だけどひとつだけ、たしかなことがある。
母はわたしたちを心から愛し、立派に育ててくれた。
「おかあさん。フィナーレにしようか」
胸いっぱいに空気を吸い込む。
わたしだけの音色を天国まで届けられるように。
奏でるのは母が特に気に入っていた『聖者の行進』だ。響き渡る軽快な旋律。
地を這う風がすべてをまきあげながら、重力を振り払って空の彼方に消えていく。
それと同時に伸ばした前髪が舞った。
刻印のように残った額の古傷もうすくなり、ほとんど目立たなくなった。
他人の視線に怯える必要は、もう、どこにもないのだ。
さようなら、おかあさん。
火照った頬にあたたかい涙が伝った。
それはほかでもない、わたしの涙だった。
びっくりしたのが伝わったのだろう、おなかのあたりがぐりんと動いた。
そこに宿った新しい命の手触りを、あなたに伝えられたら、どんなに良かっただろう。
わたしは初夏の陽射しのなかでトランペットを響かせる。
花壇に咲いた朝顔がはかなげに揺れた。
わたしはもうじき、母になる。
あなたにもしあわせの花が咲きますように。