表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/27

5章 魔女と侍女

「う……」


 朝の光が、寝台に寝そべっていた僕の顔を直撃した。いつの間にか眠っていたらしい。

 湖でアンジェネの力を目の当たりにしてから三日ほど経った。

 何が彼女の逆鱗に触れるか分からない状態での生活のため、知らないうちに気を張って、疲れやすくなっているようだ。

 本来は眠くなるということもほとんどないが、横になると、知らない間に寝てしまう。


 しかし、この3日間のアンジェネは、出会った時と同じような態度を崩さない。

 温厚な人間らしく、思い切り感情を表すことはないが、常に楽しそうにしている。

 とはいうものの、彼女が「魔女」である以上、僕に平穏なんて訪れるはずもない。


「はぁ……」


 身を起こし、大きく息をはいた。アンジェネが起きて、身支度を整えるまではまだ時間がありそうだ。

 さて、今日は何に付き合わされることになるんだろうか。

 寝台の上で大きく伸びをしたところで、ノックもなく、がちゃりと音がして、部屋の扉が開かれた。


「ん?」


 扉の方を見やった。そこにいたのは、アンジェネではなかった。

 若い女と目が合った。多分、アンジェネよりいくつか年上だ。金髪を丁寧に頭の上の方でまとめていて、簡素な黒いワンピースの上に白い前かけをつけている。

 この屋敷に来てから出会った、初めてのアンジェネ以外の人間だ。風貌から察するに使用人だろうか?

 しかし今日までまったく出会わなかったのだから、住み込みではないはずだ。何者だろう。


「きゃあああああああああっ!」


 僕の姿を見て、女が甲高い悲鳴を上げた。僕がここにいることは想定外のようだ。

 ……となるとこの状況はまずいかもしれない。

 今、僕の前にいる女は、僕が何者なのか知らないわけで。

 完全に、アンジェネの屋敷に忍び込んだ不届きものにしか見えていないだろう。


「あー、落ち着いて、僕は……」

「何者ですか貴方は!」


 驚きと恐怖に満ちた表情で女が問うてくる。

 僕に近寄ってこようとはしない。というより近寄れないのかもしれない。

 今にも腰を抜かして崩れ落ちそうなところを、何とか立っているように見える。

 悪魔だ、なんて言ったって絶対に信じてもらえないだろうな……。

 騒ぎを収めるには軽く殴って気絶させるのが一番手っ取り早いが、アンジェネの知り合いなら、下手なことはできない。

 かと言って、僕が何を言っても聞いてもらえるはずがない。

 魔法で眠ってもらおうか、と杖を取り出そうとした、その時、


「どうしたの!エマ!」


 ばたばたと走って来る音と共に、寝間着姿のアンジェネが現れた。


「アンジェネ様、来てはなりません、侵入者です! お掃除をしようとこの部屋に入ったら見知らぬ男が中に!」


 半狂乱で叫ぶ女の名前はエマというらしい。アンジェネ様、ということは、彼女はやはりアンジェネの召使のようだ。


「侵入者?」


 アンジェネは首をかしげ、とりあえず大人しく寝台の上に胡坐をかいている僕の姿を見て、ああ、と声をあげた。


「わたしったらいけないわ。エマに紹介するのをすっかり忘れていたのね」

「……はい?」


 全く何も動じていないアンジェネを見て、エマは恐怖と驚きより戸惑いの方が大きくなってきたらしい。

 まったく状況が呑み込めず立ち尽くすエマの手を引いて、アンジェネが僕の方にやってきた。


「エル、彼女はエマ。時々、わたしのお手伝いをしに来てくれているの」

「どうも」


 とりあえず挨拶のようなものはしてみたけれど、エマは怯えた目で僕の方をちらりと見ただけだった。


「エマ、こちらはエルテンス。わたしはエルって呼んでるわ。彼は悪魔でね、わたしが呼び出したの。友達になってもらうために」


 ほぼ説明になっていない気がする。


「あく……ま……?」


 普通に暮らしている人間にとっては、悪魔なんてものはおとぎ話だ。実際に存在するなんて考えもしないだろう。


「悪魔だけれど、何も怖くないわ。わたしと一緒に遊んでくれるの」


 それは命令されたからで決して善意ではないのだが、訂正する気にもなれず僕は黙ったままでいることにした。


「……つまり、この方はアンジェネ様のお知り合いであると?」


 エマが尋ねると、アンジェネがそうよ、と頷いた。続いて、僕にも回答を求めるようにエマが視線を向けてきたので、


「まぁ、そんなところ」


 と答えておいた。

 それを聞いてエマはかなり冷静さを取り戻してはきたが、しかし、と苦い顔をした。


「アンジェネ様、このようなことはやはり宜しくないかと……」

「黙っていれば誰にも分からないわ。ここに来るのはエマだけだもの」

「それは仰る通りですが、女性ならまだしも男性なら尚更……」


 僕にとって人間の道理や価値観はまったくもって意味を成さないが、ある程度こちらの世界で暮らしているからエマの言わんとすることは分かる。

 一つ屋根の下に血縁でもない男と女が二人きり、という状況はよくないということだろう。

 しかし言わせてもらえば、人間の女を前にしても、僕が欲しいと思うのは心臓だけだ。

 アンジェネはエマの言いたいことをいまいち理解していないようで、嫌よ、とかぶりを振った。


「お願いエマ、このことは誰にも言わないで。わたしたちだけの秘密にして。友達が欲しいって言っても、誰も叶えてくれないんだもの。だったら、自分で何とかするしかないでしょう?」


 縋りついて懇願するアンジェネの顔を見て、エマは少しの沈黙の後、かしこまりました、と頷いた。


「このことは口外致しません」

「本当? エマ、ありがとう!」


 アンジェネがぱっと顔を輝かせた。それを見てエマの顔にも、少しだけ笑みが浮かんだ。

 エマは僕の方に向き直り、丁寧に頭を下げた。


「先ほどは取り乱してしまい申し訳ございませんでした。私はエマと申します。アンジェネ様の身の回りのお世話をさせて頂いております」

「はぁ、よろしく」


 別に僕にまでぺこぺこする必要はないのに、このエマという人間はかなり律儀な性格のようだ。

 さて、これでいくつか分かったことがある。

 屋敷のあるこの場所は決して辺境の地というわけではなく、森を抜ければ街がある。

 アンジェネは天涯孤独の人間ではなく、血縁者ないしは知り合いがいる。

 しかし、彼女がここに独りで住み続けているのはなぜだろう?やはり魔女の力のせいなのだろうか。

 どちらにせよ、アンジェネがここから動かない以上、同じように、僕も動くことはできない。


***


 エマは数日おきにこの屋敷に来て、食料の補充や部屋の掃除などをこなし、夜には帰っていくらしい。

 本来ならば使われていないはずの部屋に掃除に入ろうとしたところ、僕と鉢合わせしてしまったようだ。

 アンジェネはエマに懐いているようで、色々と話しかけたり、彼女が作る食事に喜んだりしていた。

 注意が僕から逸れるのは有難かったが、エマはあくまで侍女という立場を貫いているため、自分の仕事を優先している。

 結局、最後に彼女の相手をするはめになるのは僕だった。

 夜も更けてきたころ、食堂の前を通りがかると、扉の隙間からかすかに光が漏れていた。

 アンジェネはもう眠ったはずだけど、と思い部屋の中を覗くと、そこではエマがまだせっせと何かの準備をしていた。


「まだやってるの?」


 扉を開け、僕が声をかけると、エマははっとこちらを振り返った。


「え、ええ。明日の朝食の準備を済ませたら帰ります」


 エマの目線はどこか落ち着かない。きっと、まだ僕が怖いのだろう。今はアンジェネがいないから、なおさらだ。


「……安心して。アンジェネの許しがない限り、僕は君を傷つけることができないから」


 そう言うと、エマはいくらかほっとしたような顔をした。

 無力な彼女の体内で脈打っている心臓を想像すると喉が鳴るが、今ここで彼女を引き裂けば「契約違反」だ。

 主の望まぬことを許しなく行うと、「鎖」によって罰が下される。

 命令や許可なく人を殺めて心臓を食べる、という行いは最も重い契約違反だ。

 命までは奪われないが、死んだ方がましとも思える苦痛を延々と与えられ続け、発狂寸前まで持っていかれるらしい。

 僕は食堂の中へ入り、テーブルについた。うまくいけば、アンジェネやこの屋敷のことを何か聞き出せるかもしれない。

 別にエマ自身のことはどうでもいいが、アンジェネ一人のために朝早くわざわざここまで来て夜遅くまで働くあたり、少なからず同情に近いものを感じる。

 もちろん僕の方が圧倒的に哀れな状況ではあるけれど。

 エマは時々こちらを気にする素振りを見せたが、それでも仕事の手はとめなかった。

 そういえば、明日の準備が終わったら帰るって言ってるけど、まさか一人で夜中にこの森を抜けていくのだろうか?

 獣に出くわしてしまう可能性は十分にある。それ以前に真っ暗な森を一人で歩いたら、確実に迷ってしまうだろう。


「君、この時間に一人で帰るの? この森を通って?」

「いつも、アンジェネ様が獣除けの魔法の灯りを下さいますから、ご心配には及びません」

「……君は知ってるんだ。アンジェネの魔女の力について」


 アンジェネとエマはそこそこ長い付き合いのように見えたし、さすがに知らないということはないようだ。


「……存じております。ですが、アンジェネ様はご自身の力を悪用されるようなことは一切ございません」


 僕はその力に縛られているんだけど。


「アンジェネがこの森から外に出られないのは、魔女だから? 誰が彼女を閉じ込めてる?」


 エマが困ったように僕の顔を見た。僕を信用していないか、口を割るなとアンジェネないしは別の誰かから言われているか、そんなところだろう。


「……答えられないならいいよ。さっきも言った通り、僕は君に危害を加えられない」


 今、僕の置かれている状況がはっきりしないのは気に入らないが、これ以上揺さぶっても、エマから情報を聞き出せないだろう。

 僕があまり強く出過ぎて、エマからアンジェネにそのことが知れたら、痛い目に遭わされるかもしれない。

 エマは小さく申し訳ございません、と頭を下げた後、それ以上何も言わず、仕事を終え屋敷を出て行った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ