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4章 魔女の力

 僕がアンジェネと契約を結び、はや数日。

 要求されることといえば、お喋りや散歩への付き合いばかりだ。時々、掃除やらを手伝わされる時もある。

 誰かを殺せと命じられることもない。当然、心臓にありつくことなんてできるはずもない。

 悪魔にとっては、最悪の主だ。

 それだけではない。彼女、アンジェネという人間はあまりにも不気味だ。

 か弱そうな見た目とは裏腹に、強い力で僕を従えている。

 自分のことを魔女と言い、森の奥の屋敷に一人で住んでいる、友達になってほしい、という望みもまったく理解ができない。

 自分の運の悪さを呪い、彼女の様子を伺いながらの生活。自室も寝床も与えられてはいるが、居心地はまったく良くなかった。

 寝る必要がない僕にとって、彼女が眠る夜の間は自由に行動できる時間だ。

 屋敷内のものを下手に触らない範囲で、こっそり調べまわってみたが、アンジェネが何者か判断できるようなものは何もなかった。

 ここが本当にアンジェネの持ち物であるなら、そこそこ身分の高い人間、分かるのはそのぐらいだ。

しかしながら、最初の方こそ僕はアンジェネを狂人ではないか、と疑っていたが、どうもそれは違うようだった。

 会話は通じるし、僕に危害を加えようとする様子もない。純粋に、僕を遊び相手にしたいらしい。

 とはいっても、そんなことは決して救いにはならない。痩せて枯れた何もない荒野で、一さじの水だけ投げてよこされるようなものだ。


「エル、お散歩に着いてきて!」


 日が高く上ったころ、アンジェネが声をかけてきた。当然ながら嫌だと言うことはできない。

 悪魔は主の命令に反抗すると、「鎖」の力で苦痛を味わうことになる。

 散歩といっても、屋敷の周りや中庭を歩くぐらいで、正直退屈なこと極まりない。すでに景色は見飽きていた。

 だが、今日はいつもと違っていた。


「今日は少しだけ遠くの方へ行くわよ。はぐれないようについて来てね」


 遠くとはどの辺りだろう?この屋敷自体は開けたところに建っているが、周りはそれなりに高い木で囲まれている。

 屋敷の窓からでは、何がどこにあるのか見当がつかない。

 アンジェネは普段のドレスより簡素な、膝丈の薄い緑色のワンピースと、飾り気のない黒い靴といういで立ちだった。

 彼女に連れられるまま、屋敷を出て森を進んでいく。整備された歩道などはなく、ほぼ獣道だ。

 僕はそんなに気にならないけれど、悪路に慣れていない少女には進みづらいのではないか、と思ったが、彼女も特に何も気に留めることなく確かな足取りで歩いている。

 ほどなくして、視界が開けた。

 目の前に湖が広がっていた。日の光を受けて、湖面がきらきらと輝いている。


「綺麗でしょう? ここ、秘密の場所なの」


 アンジェネが言い、湖のほとりに立った。僕も並んで立ち、水面を覗きこんだ。

 水は澄んでいる。人間の手はまったく入っていないのだろう。

アンジェネはいそいそと靴を脱ぎ、水の中へ足を踏み出した。足首まで水につかり、ぱしゃぱしゃという音が響いた。


「エルも来たらどう? 気持ちいいわよ」


 アンジェネが振り向き、僕を誘った。僕は断る代わりに、その場に腰を下ろした。


「僕はいいよ」


 とりあえず、アンジェネの気がすむまでここで見ていればいいだろう。何が楽しいのかさっぱり分からないし。

 アンジェネは少しの間、黙って僕を見つめ、それから何を思ったか、両手で水をすくいあげて、僕の方に投げつけてきた。


「うわぁっ!?」


 頭上から降って来た水が、帽子を、髪を、肩を濡らす。


「何するんだよ!」

「……ふふっ。あはははは!」


 声を荒げる僕とは反対に、アンジェネは愉快そうに笑った。完全に遊ばれている。

 ……いくら何でも、悪魔を舐めすぎだ。自分が何を呼び出したのかまるで分かっていない。

 契約が有効な間は、悪魔は主を傷つけることはできない。

 だけど、悪魔の力を彼女に思い知らせるくらいは許されるだろう。

 僕は立ち上がり、右手を前に突き出した。軽くその手を握ると、一瞬にして、手の中に杖が現れた。僕の脚と同じほどの長さで、色は黒、握り部分は銀色だ。

 武器になったり何かと便利なため、僕はこれを愛用している。普段は別の空間にしまっていて、必要な時だけ呼び出しているのだ。


「わぁ」


 突然現れた杖を見て、アンジェネが驚きの声をあげた。この程度なら、ただの手品だと思われるだろう。

 だが、これからすることは決して子供だましの余興などではない。

 杖の先を水に浸し、軽くかきまぜた。水面がぐるぐると渦を巻き始める。

 杖を持ち上げると、水がそのまま持ち上がり、柱のように伸びていく。

 あっという間に、それは僕の背丈まで届いた。

 悪魔であれば皆、特別な力を使って、ものや自然を操ったりできる。魔法と呼ばれるものだ。

 人間には魔法の力は備わっていない。彼らには成しえないことをして見せれば、ある程度、畏怖の念を抱かせることはできる。

 透き通った水の柱の向こうに、立ち尽くすアンジェネの姿が揺らめいている。きっと呆然としていることだろう。

 ここでやめても良いが、怪我をさせない程度に驚かしてやろう。

 僕が軽く杖を振ると、水の柱が形を変え、球体の姿をとって空中に浮かんだ。

 もう一度杖を振ると、水の球はふわふわとアンジェネの頭上まで飛んでいき、そこでばちんと弾けた。


「きゃっ!」


 頭のてっぺんから水をかぶる形になり、アンジェネはびしょ濡れだ。


「こんなのはほんの遊びだからね? 悪魔がどういう奴かっていうのを、ちゃんと理解した方がいい」


 さすがにこれでアンジェネも驚いて反省してくれるだろう。

 ……と思っていたのだが。

 アンジェネはしばらく、自分の体から滴り落ちる雫をぼんやりと見ていたが、僕の方に視線を移し、それから、僕がまったく予想していなかったことに、破顔した。


「すごい! エル、すごいわ!」


 ばしゃばしゃと音を立ててアンジェネは僕の方に駆け寄ってきた。まさか、まだ手品だと思われているのだろうか?


「はっ!? あのね、今のは僕の、悪魔の力なんだ。魔法なんだよ。分かる?」


 そう言い聞かせたものの、アンジェネはにこにこと笑みを浮かべたままだ。


「ねぇ、わたしのも見てくれる?」

「え? 何を…」


 アンジェネが水面に手をかざしながら、少しずつ僕から後ずさって距離をとった。

 すると、僕と彼女の間に広がる水面がうねり、大きく波打ち始めた。おかしい。アンジェネはその場に立っているだけで、動いていない。

 アンジェネが、水面にかざした手を横に広げた。すると、波打っていた水がみるみるうちに上に伸びあがっていき、やがて壁のような形をとった。


「なっ……!」


 こんなことあり得るはずがない。人間に、魔法は使えない。

 だが、僕の目の前にあるのは、間違いなくアンジェネの魔法によって作られた水の壁だ。

 水の壁の向こうで、アンジェネが両手を上にあげたのが見えた。すると、水が滝のようにどっと下に落ち、元通り、静かな水面に戻った。


「どうだった? すごいでしょう?」


 アンジェネがまた、僕の方へ帰ってきた。その表情は無邪気そのもの、対する僕の顔は完全に強張ってしまっていた。


「い、今のは……」

「わたしの、魔女の力よ」


 魔女、出会った時、彼女は僕にそう名乗った。

 それは決して冗談でも、虚言でもなかったのだ。僕を縛る契約の「鎖」の力の強さ、そして、自然を思いのままに動かす力、

 アンジェネはただの人間じゃない。

 唖然としたままの僕の顔を見ていたアンジェネが、不意に手を伸ばしてきて、僕の帽子をさっと取った。


「あっ!」


 僕が返せ、と言う前に、アンジェネはくるりと僕に背を向け、湖の真ん中の方へ走っていく。

 湖の中心ともなれば、そこそこ深さがあるはずだが、アンジェネの体はまったく水へ沈んでいかない。

 僕はアンジェネの足元をまじまじと見て、はっとした。彼女の体どころか、足も水に浸かっていない。

 アンジェネは、水の上を歩いていた。これも魔法だ。


「返して欲しかったらここまで来て!」


 アンジェネが頭の上で、僕から奪い取った帽子を振りながら声を張り上げた。

 一体何を思って彼女はこんなことをしているのだろうか、理解に苦しむ。

 帽子が傷んだらどうしてくれるんだ。気に入ってるのに。

 僕は小さくため息をつき、静けさを取り戻している水面へ一歩踏み出した。

 アンジェネは僕に勝った気でいるかもしれないが、僕にだって水の上を歩くぐらい簡単なことだ。

 水面を進んでいき、アンジェネの元へたどり着いた。また逃げられたり遊ばれたりするかと思ったが、彼女は意外とすんなり、帽子を僕の頭の上に戻した。


「貴方、わたしと同じなのね」


透明な水の上に立つ僕の足元を、続いて顔を見て、アンジェネは嬉しそうに言った。

 同じ?悪魔と人間は全く異なる生き物だ。だが、僕の目の前に立っているこの少女は、普通の人間にはできないことを、いとも簡単にやってのける力を持っている。


「君は……何者なんだ?」

「わたしは、魔女」


目の前の少女は、ただそう答えるだけだった。


***


 湖から帰り、頭から水を浴びた状態だったアンジェネは、風邪をひくといけないからと、湯浴みに行ってしまった。

 一方の僕は、自室で一人、先ほど起こったできごとについて反芻していた。

 彼女はもちろん悪魔ではない。だが普通の人間とも呼べない。魔法を操る人間、確かに「魔女」という呼び名がしっくり来る。

 この人気のない森で、独り暮らしをしていたのも、普通の人間に混じって暮らすことが難しいからなのかもしれない。

 いや、彼女自身の生い立ちや今の生活についてはこの際どうでもいい。問題は、僕がおかれている状況だ。

 アンジェネは涼しい顔で、水を自在に動かしてみせた。きっと彼女にとっては造作もないことなのだろう。

 つまり、もっと本気になれば、更にとんでもないことができるのではないか。

 僕たち悪魔は、人間より遥かに頑丈だ。ちょっとやそっとで死ぬようなことはない。

 首を刎ねられたり、心臓を一突きにされでもしない限りは、多少の怪我なら少し休めば治る。

 それなりの人間が束にならなければ、悪魔には到底敵わない。

 悪魔の主となった人間は、自分と契約を結んだ悪魔を「殺す」ことはできない。

 殺意をもって悪魔を傷つけようとすると、人間の方も「鎖」の力で苦しみを味わうことになる。

 だが、命を奪う意思なく、単に痛めつけるだけであればそれは咎められることはない。実際、僕にも経験がある。

 アンジェネがもし機嫌を損ねれば、どんな魔法を使われるか分からない。普通の人間ならできない手段で、僕に暴力を振るってきたら――


「……くそっ」


 窓の外に広がる森を見ながら、僕は悪態をついた。

 あんな人間と、僕が「鎖」で繋がれているなんてぞっとする。

 だけど、ここにいる限り、僕にはアンジェネに従う以外の選択肢はない。

 ここは、まるで牢獄だ。

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