2章 新たな主人
視界がだんだんはっきりしてきた。
さて、僕の主となり、いずれ心臓を食べられる、哀れな人間はどんなのだろう。
それは、目の前に立っていた。
「……うん?」
その姿をとらえた僕は、思わず眉間に皺を寄せた。
そこにいたのは、若い女だった。少女といってもいいかもしれない。人間の年齢で予想するに、十五か、十六歳くらいか。
腰まである、ゆるく波打つ黒い髪、白い肌、青い瞳。
僕に人間の見た目の良し悪しはよく分からないが、おそらく一般的に「美人」と言われる部類ではあるだろう。だが、雰囲気は悪魔には到底縁がなさそうな、いたって普通の人間だ。
飾り気のないドレスをまとったその少女は、現れた僕に驚きもせず、喜びもせず、不思議そうな顔で僕を見つめていた。
「悪魔さん?」
少女は首をかしげた。悪魔を呼び出そうなんて考える人間は、大体、狂気なり欲望をはらんだ目の持ち主ばかりだけれど、この少女の表情からは、そんな類の感情は感じ取れなかった。
何を考えているのか、まったく読み取れない。
「……そうだけど」
僕が答えると、少女は少しだけ目を見開いた。僕が話したのに驚いたらしい。
「お話ができるの?」
「できるよ。当たり前だろ」
僕が答えると、少女はあらためて、僕の頭からつま先までを凝視してきた。
「牙とか、角とか、爪はないの?」
「はあ?」
一体この人間は何が出てくると思っていたのだろう。大きくて気味の悪い怪物を呼び出すつもりだったのか。
「ごめんなさい。気を悪くしないでね。わたし、悪魔なんていうものだから、とても恐ろしい姿をしていると思っていたのだけれど」
僕が苛立っているのに気付いたのか、少女はなだめるように言った。
「想像していたより、ずっと素敵だわ」
そう言って少女は笑みを浮かべたが、僕は褒められても大していい気分にはならない。
それどころか、少し嫌な予感がしていた。
多分、今目の前にいるこの人間は、ただの好奇心か、面白半分で悪魔を召喚したくちだ。
そう多くはないが、たまにこういう人間はいる。そしてその場合、契約をしても、特に野望や願いがあるわけではないので、殺しを命じられることもなく、契約が終わりを迎えるまで、大して居心地のよくないこちら側で退屈に過ごす羽目になる。
運がいいと浮かれていたさっきまでの僕をぶん殴ってやりたい。
僕はこれから先に起こることは考えないようにしながら、周りを見渡した。
今、僕がいるのは窓のない部屋だった。部屋の隅には木箱が無造作に積まれている。ここは物置かなにかだろう。
そして、石造りの床には、僕を囲むように、ぐるりと何重もの円が描かれていた。
円と円の隙間には、複雑な記号が書き込まれている。
悪魔を呼び出すための印だ。正確に描かれたものだけが、僕たちの世界と人間の世界を繋ぐ門となり、悪魔は人間の世界へやって来ることができる。
この少女は、どうやってこの印の書き方を知ったのだろう? そもそも、どうして悪魔を呼び出そうなんて気になったのだろう?
本当に、純粋な好奇心なのか、それとも、何かやりたいことがあるのだろうか?
いや、色々考えるのは後だ。契約はまだ成立していない。
契約を完全に成立させるためには、悪魔を呼び出した人間と、悪魔が肉体的に接触する必要がある。
とはいっても、人間たちの文化でいうところの握手で充分だ。
接触によって、互いが見えない力、僕たちは「鎖」と呼んでいるものによって繋がれる。
この「鎖」は、一度結ばれたら、人間と手でも悪魔の手でも、断ち切ることはできない。
切れるのは、契約が終わる時、すなわち、人間が悪魔を服従させられるだけの力を使い果たし、悪魔がその心臓を喰らう時だ。
万が一、人間が逃げ出そうとしても、「鎖」が繋がっていれば悪魔はそれを辿ってどこまでも追うことができる。
一度契約が成立すれば最後、その人間は死ぬまで悪魔に縛られる、というわけだ。
「僕は悪魔エルテンス。望みを叶える代わりに、最後には君の心臓をもらう。同意するならこの手をとって、それで契約は成立する」
僕は名乗り、右手を少女の方へ差し出した。
これが人間側にとって、最後の選択の時になる。ここで悪魔に触れることを拒めば、この呼び出しはなかったことになり、僕は悪魔の世界へ戻る。
最後に怖気づいて拒む者、事の重大さに気づかずあっさり契約を結ぶ者、それぞれだ。
密かに、少女が契約を拒む側でいてくれないかと願った。彼女の態度はどうも調子が狂う。できれば一緒にいたくない。
だが、僕の願いも空しく、少女はにっこり微笑み、僕の手を両手の細い指で包み込んだ。
「わたしの名前はアンジェネ。よろしくね」
契約成立。「鎖」は結ばれた。
「ん……?」
その時、僕は今までにない妙な感覚を覚えた。
人間が悪魔を従える力は、言い換えれば精神力のようなものだ。人間によってそれぞれ力の強さは違う。
契約して数日で力を使い果たし呆気なく悪魔の餌になる者から、数十年も持ちこたえる者もいるが、
力を失ってくるにつれて、その人間の体はどんどん衰えていく。
人間が自分の力をはかる術は持たないが、僕たち悪魔は、契約を結んだ時に何となく、その人間の力の程度が分かる。
だが、アンジェネと名乗ったこの少女の力が、どのくらいのものか、まったく見えない。それに、「鎖」の存在をとても強く感じる。
こんなことは初めてだ。
力の強さに性別や年齢はさほど関係しないのだが、それにしたって、僕なら簡単に捻りつぶせそうな華奢な少女のどこに、そんな力があるのか、と疑いたくなる。
しかし、確かに彼女の「鎖」が、がっちりと僕を繋いでいる。
薄々感じていた嫌な予感が、どんどん確かなものになっていくのを感じた。
差し出した手を引っ込め、僕が考えを巡らせていると、アンジェネが声をかけてきた。
「貴方のこと、エルって呼んでもいいかしら?」
「へ?」
思わず間抜けな声を漏らしてしまった。そんなことを聞かれたのは初めてだ。
そもそも、僕のことを名前で呼ぶ人間も、今まで数えるほどしかいなかった。皆、僕が悪魔であることだけで満足し、それ以外のことなんて考えていなかったのだろう。
「はぁ……勝手にすればいいけど……」
気のない返事だったにもかかわらず、アンジェネは嬉しそうに頷いた。
「ありがとう。エル」
本当に、彼女の目的や意図がさっぱり読めない。
さっそく何か命令されるのかと思ったが、アンジェネはさぁ、と部屋の扉を示した。
「とりあえずここを出ましょう。あなたの部屋を用意してあるの」
「何だって?」
悪魔に部屋なんて用意して、一体どうする気だろう? まさか、僕に首輪でもつけて飼うつもりなのか?
アンジェネはきょとんとした様子で、僕を見た。
「ここに住むのだから、部屋がいるでしょう?」
「別にいらないよ。僕はほとんど寝ない」
悪魔は見た目こそ人間と同じだが、体はかなり違う。生きるのに、食事や睡眠はほぼ必要としない。
「寝なくても部屋は必要よ。友達にはきちんとおもてなしをしなければいけないもの」
「……今、何て?」
まさか、いや、聞き間違いだろう。
「友達。わたしは、あなたに友達になってもらいたいの」
どうやらアンジェネは本気らしい。僕は何か言おうとして口を開きかけたが、何も言葉が出てこなかった。
もう何がどうなっているのかさっぱり分からない。
友達とは、気の合う人間同士が群れて行動を共にすること、そういう概念が人間にはあるというのは何となく知っていたけれど、僕たち悪魔にそんなものはないし、理解できるはずもない。
友達になれと言われても、どうしていいのか考えが及ばない。というより、人間となんて友達になりたくない。
それに、そんなことを頼んでくるということは、心臓にありつける機会は契約が終わる時までないと言われているようなものだ。
僕は頭を抱えてうずくまりたくなったが、アンジェネが僕の服の袖をつかんで軽く引っ張ってきた。
「お話はここを出てからでもできるわ。とにかく行きましょう。ね?」
僕は観念して、重い足取りでアンジェネの後についていった。少なくとも今は、この人間に逆らうことはできない。
今の僕にできるのは、これから始まる人間界での日々が、極力早く終わってくれるよう願うことだけだ。




