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25章 選んだ結末

 それからしばらく、エマは毎日屋敷に来て、色々と僕たちの世話を焼いてくれた。

 人間たちの中には、まだ魔女の報復と怪物の襲来を心配する者もいるらしいが、少しずつ、自分たちの生活の安定に向けて動き出しているようだ。

 僕はすっかり調子を取り戻し、アンジェネもかなり顔色がよくなった。

 ようやく、いつも通りの生活に帰ってきた感覚だ。

 けれど、何もかも今まで通り、というわけにもいかない。


「……エマ、これからはもう、ここに来ない方がいいと思うわ」


 その日の夕食を終え、後片付けに取り掛かっていたエマに、アンジェネが声をかけた。

 僕とアンジェネは、安易にこの森から出られない。エマが屋敷まで来ないなら、会う手段はなくなる。

 エマが、困ったような表情を浮かべた。


「私に、何か至らないことがございましたか?」

「そうではないの。ここにエマが来ていることが分かったら、あなた、きっと皆に怪しまれるわ。それに、わたしはもう王女ではないの。今のわたしにはあなたにお給料も払えない」

「私の心配は無用ですわ。気づかれないようにうまくやります。すべて私が好きでやっていることです」


 なおも食い下がるエマに、アンジェネは寂しそうで、でも毅然とした態度は崩さなかった。

 僕とアンジェネはこの世界の中では「異端」の存在だ。普通の人間なら、街なり村なりで、家族を持ち、働いて暮らす。ここに通い続ける限り、エマがそんな生活を手に入れることはできない。


「エマ、わたし、あなたには本当に感謝しているの。だから、あなたには幸せな生活をして欲しい。わたしのためではなく、エマ自身のために生きて欲しいの。わたしには何もできないけれど、これからこの国は生まれ変わるのだから」

「アンジェネ様……」


 エマは何か言いかけたが、それ以上反論することはなかった。

 きっと、こうなることはエマ自身もどこかで分かってはいたはずだ。彼女はそこまで馬鹿な人間ではない。


「……本日限りで、お暇を頂きます」


 エマはそう言って、頭を下げた。

 エマは夕食の後片付けの後、最後の仕事と言って屋敷の簡単な整理、明日の朝食の準備までしてくれた。

 夜も更けかけたころ、僕とアンジェネはエマを見送るため玄関に立った。


「これを持っていって。エマがお家に着くまで守ってくれるわ」


 アンジェネがエマに手渡したのは小さなランプ。中で光っているのはただの火ではなく、魔法の光だ。


「ありがとうございます。アンジェネ様」

「エマ」


 最後まで丁寧に礼をするエマに、アンジェネがそっと抱き着いた。


「今まで、わたしのそばにいてくれてありがとう。わたし、エマのこと大好きよ」

「……父は、ずっとあの日のことを悔いておりました。あの時自分が粗相をしなければ、アンジェネ様がここに追いやられることはなかったのかもしれないと」


 アンジェネが人前で魔法を使い、ここに独り、幽閉されることになったきっかけは、ある使用人の態度に王が難癖をつけたこと。

 エマは、その使用人の娘だったのか。

 エマがずっとアンジェネの侍女をしていたのは、その繋がりなのだろうか。


「サミュエルのせいではないわ。これはわたしの運命だったのよ」 

「周りがあなたのことを魔女と呼び憎んでいても、あなたにお仕えできたことは私の誇りです」


 エマは静かに言い、アンジェネを抱きしめ返した。


「私も、アンジェネのことが大好き」


 アンジェネとエマが顔を見合わせ、笑いあった。

 アンジェネが王女ではなくなったことで、守らなければならなかった身分の壁はなくなった。

 きっともう会えないだろうけど、最後に「友達」として別れることができる。これで良いのだろう。


「エルテンス」


エマがアンジェネから離れ、僕の方に向き直った。


「アンジェネを、どうかよろしくね」


 僕の前に、エマの手が差し出される。

 僕はその手を、しっかりと握った。


「契約はしてないけど、君の言うことは聞いてあげる。特別に」


 エマは頷き、僕の手を離すと、最後に深々と頭を下げた。


「二人とも、どうか元気で……さようなら」

「さよなら、エマ」


 エマの背が見えなくなったあとも、アンジェネは物憂げに、彼女が去った方をじっと見つめていた。

 エマの前では泣いたりせず、最後まで笑っていたが、やはり辛いものがあるのだろう。


「寂しい? 心配?」

「少しだけ」

「大丈夫さ。エマは強い。悪魔と魔女の世話だってこなすんだから」


 僕が言うと、アンジェネは小さく頷いた。


「……そうね」


 エル、とアンジェネが僕の袖を軽く引っ張った。


「わたし、星が見たいの。上の階についてきてくれる?」


 夜も遅いし寝たら、と言おうかと思ったが、エマとの別れが結構応えているらしい。少しだけ付き合おうか。


「いいよ。少しだけなら」


***


 澄み渡った夜の空気。

 バルコニーから見る星空は、今にも手が届きそうだ。

 アンジェネは僕の隣で空を見上げていたが、どこか心ここに在らずというような雰囲気だった。

 星を眺めているように見えるが、ただ単に顔を上げているだけ、というような感じだ。


「……君、まだ何か悩んでるね」


 僕が言うと、アンジェネは小さくため息をついて視線を下げた。


「それは……そうね」

「身の回りのことはエマがいなくたってできるだろ、僕も手伝えばいいし……ああ、食料とかを手に入れるあてがなくなるか。僕は食事の必要はないし、君の分だけなら何とかなるよ。このあたりの動物を捕って、あとは木の実とか」


 アンジェネは黙ったままだった。他に何の心配があるのだろう?

 魔法でこの屋敷を隠すと言っていたから、誰かに見つかることはないはずだけれど……


「もしも、何かの理由でここに住めなくなったら、僕が君をここから連れ出す。一緒に遠くへ行こう。前にも言ったかもしれないけど、君が命じれば、できるから」

「ええ……」


 なおも曇ったままのアンジェネの顔を見て、僕は溜息混じりに呻いた。


「アンジェネ、あとは何が心配?」


 しばしの沈黙の後、アンジェネがようやく口を開いた。


「わたし、あとどのくらい生きるのか分からなくて」

「え?」


 彼女の言いたいことが、すぐには分からなかった。

 どのくらい生きるか? 人間の寿命はだいたい六十年、七十年とかそのくらいだ。

 もちろん、病気や事故があればその限りではないけれど。


「どのくらい生きるかって……あと何十年かじゃないの?」

「本当にそう思う?」

「本当にって……。ごめん、君の不安が何なのか分からない」

「わたしは、十六歳で死ぬって決めつけていた。だからその先は考えたことがなかったわ。でも、わたしは魔女だから、普通の人と違うから……もしかしたら、生きる時間も普通とは違うかもしれないって思うの」


 そういえば、図書室においてあったいくつかの物語に出てくる魔女たちは、何百年も生きているという設定が多かった。

 単にアンジェネがそういった物語に感化され過ぎなのかもしれないけれど、恐ろしく長生きしたり、不老不死、ということだって、彼女ならあり得るかもしれない。

 けれど、そもそも僕自身が老いて死ぬということがない。僕とアンジェネの契約の「鎖」も固く繋がれたままだ。

 それが切れる気配はない。きっと、アンジェネが死ぬまでこの契約は続くだろう。


「もし、君がこれから先、百年、千年生きるとしても、僕は君を置いていったりしないよ。というか離れられないしさ」

「それじゃあ、エルはもう……」

「僕はもう、悪魔の生き方を捨てると決めた。別に心臓を食べなくたって死ぬ訳じゃない。急には無理かもしれないけど、少しずつでも人間として生きていきたい」


 きっと他の悪魔たちが聞いたら、呆れるか嗤われるかだろう。

 人間に心を奪われた哀れな奴だと思われるかもしれない。

 たとえそうだとしても、悪魔として、何百の心臓だけを求めて喰らう怪物より、ただ一人の心に寄り添って生きる人間になりたい。

 これからも後悔はしない。


「でも、心臓はエルの一番好きなものなのに……。友達の一番好きなものを奪ってしまうのは辛いわ。なにか代わりになるものがあればいいのだけれど……」


 アンジェネが僕の手をとった。


「わたし、エルに何をしてあげられる?」


 僕がアンジェネに望むもの、心臓を喰らうことより素敵な何か。

 少し考えて、あることを思い出した。


「君、僕を魔法で眠らせる前に、何かしただろ」

「何か?」


 アンジェネは首をかしげた。


「君たちがなんて呼ぶのか知らないけど……唇を合わせて、さ」


 それを聞いてアンジェネは合点がいったらしい。ああ、と頷いてみせた。


「キスのことね?」


 温かくて優しい、あの感覚。

 あれをこれから先も感じられるなら、それだけで満足できる気がする。


「キスをしてほしいの?」

「駄目?」


 僕が問うと、アンジェネはくすくすと笑いながら首を振った。


「もちろんいいわ。エルがそんなことを言うとは思わなかっただけ」


 彼女の手が伸びてきて、僕の頬に触れた。


「愛しているわ。エル。貴方がそばにいてくれるなら、わたしは魔女でも構わない」


 アンジェネがわずかに背伸びをして、唇が重なった。

 彼女の体温が伝わってきて、心が満たされていくのを感じる。

 ああ、やっぱり、心臓の味より、こっちの方がずっとずっといい。

 アンジェネの顔が離れた。少しだけ恥ずかしそうな、けれど嬉しそうな表情を浮かべている。

 もう一度、して欲しい。


「もう一回」


 僕が言うと、アンジェネはまぁ、と一瞬だけ驚いたような素振りを見せた後、すぐに微笑んだ。


「今度は貴方からして?」

「ん……」


 うまくできるだろうか、自信はなかったけれど、これから先、いつもアンジェネからしてもらうだけというのもよくないだろう。

 アンジェネの華奢な体を抱き寄せる。彼女は黙って身を委ねてきた。


「……アンジェネ」


 アンジェネの、星のようにきらめく瞳の中に、僕の姿が映っている。僕だけを見てくれている。

 どこまでも純粋で、優しい魔女。


「悪魔や魔女が、幸せになったっていいよね」


 顔を下げ、今度は僕から、唇をアンジェネのそれに触れ合わせる。

 もしも、悪魔が願うことを許されるなら、願うのはただ一つ。

 一日でも長く、君のそばにいたい。

 それが叶うなら、僕はこの世界で、一番幸せな悪魔だ。

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