24章 再会
目を覚ますと、外は暗くなりかけていた。そこそこ眠ってしまったようだ。
しかしおかげで、ずいぶん体は軽くなっていた。
扉を叩く音がしたため、返事をすると、エマが入ってきた。
「お体の具合はいかがですか?」
「うん。もう大丈夫みたい」
僕が答えると、エマは良かったです、と安心したようだった。
「お食事は、召し上がられますか?」
丸五日、何も食べていない。死にはしないものの、何か腹に入れた方が体力の戻りは早いだろう。
「そうだね。もらうよ」
「では、下の食堂へどうぞ。アンジェネ様がお待ちですよ」
「アンジェネ、起きたの?」
「はい。エルテンス様の意識が戻ったとお話ししましたら、それはもう大層お喜びでした。やっとお食事も召し上がる気分になられたようで……」
「そっか……」
僕の返事に元気がないのを心配してか、エマが僕の顔を覗き込んだ。
「お一人の方がよろしいですか?」
「あ、いや、そうじゃなくて」
処刑場に殴りこんでいった時は、アンジェネと言葉を交わす暇もなかった。
そのうえ、僕は気を失って五日間、彼女とは顔を合わせていない。それまでは毎日会っていたのに。
しかも、血みどろの姿や恐ろしい怪物の姿まで見せてしまっている。
怖がられたりしないか、不安だった。
「なんていうか……どういう顔でアンジェネに会っていいのか分からなくて。色々、見せたくないもの見せちゃったし」
「……ふふふっ」
僕の言葉を聞いて、エマは心配そうな顔から一転、破顔した。
「え!? 何がおかしいのさ!」
「ふふふ、いえいえ、申し訳ございません。エルテンス様がなんだか可愛らしくて」
未だくすくすと笑っているエマを見て、僕は大きくため息をついた。
「君もアンジェネみたいなこと言うんだね……」
悪魔に向かって。しかも僕は男だっていうのに。
「そのように悩まなくても、いつも通りで良いのですよ。いつものエルテンス様で、アンジェネ様へお会いになって下さい」
エマはそう言って、部屋の扉を開け、僕の方を見た。
「さあどうぞ。アンジェネ様がお待ちです」
***
エマに連れられて食堂に向かうと、アンジェネがそこにいた。
席についていた彼女と目が合う。アンジェネが目を見開いた。
5日ぶりに見るアンジェネは、少し疲れているように見えた。エマの話だとろくに寝ていなかったようだから無理もない。
アンジェネが席を立ち、真っすぐ僕の方に向かってきた。
「エル……」
か細い声で僕の名を呼び、僕の頬に指先でそっと触れる。
「心配かけて、ごめん」
最初にかける言葉がこれでいいのかは分からないが、僕がアンジェネを憔悴させたのは事実だ。
「……ううん」
アンジェネがかぶりを振った。その瞳から一筋、涙が零れる。
そして僕の背中に手を回し、思い切り抱き着いてきた。
「良かった……! 良かったわ……!」
アンジェネが泣くのを見たのは、今日が始めてだ。
涙声で何度も言う彼女の背をさすってやった。
「もう大丈夫だから、ね?」
少し経って、アンジェネが落ち着いてきたところで、今まで黙って僕たちを見守っていたエマが声をかけてきた。
「さあ、お食事にしましょう」
***
野菜のスープの温かさが身にしみる。
久しぶりの食事に、僕は安心感を覚えていた。
前までは心臓以外のものを食べても特になにも感じなかった。だけど、今は美味しいと思える。
この感覚は悪くない。
そういえば、自分自身とアンジェネのことで精いっぱいで、もう一つ大事なことを忘れていた。
「エマ」
「はい?」
せっかくなので一緒に食事を、と席についていたエマが顔を上げる。
「あのさ……城とか、街って今どうなってるの? 君はここに来てるけど、他の人間は? 僕、結構派手に暴れたけど……」
この五日間、たまたま何もなかったからといって安心はできないのではないか。
魔女と蛇の怪物を殺せと国の人間たちが大勢でこの屋敷に押し寄せてきたら、今度はアンジェネを守り切れる自信がなかった。
しかしエマはご安心ください、と微笑んだ。
「皆、魔女が怪物を連れて報復に来るのではないか……と恐れて、今はほとんど家の中に閉じこもっています。あのお姿のエルテンス様を見て、戦おうとする者はおりませんよ」
「そうなんだ」
まあ、死人は出ていないはずだし、アンジェネを処刑しようとした奴らだ。少しばかり怯えながら反省してもらう方がいいだろう。
「国王様の権威が失われたことで、この国の在り方は大きく変わります。皆、これからはそちらの方に意識が向くかと」
そうだ、元はといえばこれは革命。王の支配がなくなり、民が主体となる。
「じゃあ、僕らも大人しくしておけば危険はないってことか」
この屋敷が安全なら、僕にとっては後のことはどうでもいい。
今までと変わらず、隠遁生活を送らなければならないが、生きていられるだけましだ。
「魔法でここを隠すわ。そうすれば見つからないから」
アンジェネが口を開いた。いくらか食べ物を口にしたおかげか、先ほどより元気そうに見える。
「できるの?」
「ええ。簡単よ」
処刑の前夜にはやらなかったことだ。運命を受け入れて、自ら捕まることを選んだ。
けれど、今のアンジェネには、生きようという意思がある。
「なら、それがいいと思う」
僕はそれだけ言った。
***
夕食を終え、僕とアンジェネは談話室へ移動していた。正確にはエマによって追いやられたという方が正しい。
「片づけは私がしておきます。終わりましたらお暇しますから、お二人でごゆっくりなさってください」
お話したいこともたくさんあるでしょうから、と言われたものの、あらためてアンジェネと二人になると何から話していいか分からないままで、僕たちは長椅子に並んで腰かけ、ぱちぱちと燃える暖炉の薪を見つめていた。
「エル」
先に口を開いたのはアンジェネだった。
「あの……、今まで本当にごめんなさい」
先ほどは少し活気が戻ったような感じだったのに、また今にも泣きそうな調子になっている。
「色んなことに巻き込んで、振り回してしまったわ。痛い思いもさせてしまったし」
「別に、謝ってほしいなんて思ってないよ」
僕は小さく息をつき、続けた。
「エマから全部聞いた。君がここに暮らしている理由も、君が何者なのかも。多分、君はすごく辛かったんだと思うし」
アンジェネの許可なしにエマからすべて聞いてしまったので、もしかしたら怒るかもな、と思ったけれど、彼女はいくらかほっとしたような顔をした。
「貴方を騙すつもりはなかったの。ただ巻き込みたくなかっただけ。もう何も隠さないわ」
「うん。隠し事はもうたくさん」
僕が言うと、アンジェネはふふっと笑った。
「エル、聞いてもいい?」
「なに?」
「どうして、わたしが心臓をあげるって言ったとき、食べなかったの?」
「それは……」
聞かれるだろうなとは何となく予想していた。目の前に心臓が差し出されて、食べないという選択肢をとる悪魔がいるわけない。
「それだけじゃないわ、わたしが処刑されるとき、どうして来てくれたの? わたしの魔法を破るのは大変だったはずだし、傷だらけになってまで、どうしてわたしを助けてくれたの?」
答えは僕の中にある、エマはそう言っていた。
上手く言えるかどうか分からないけれど、とにかく思っていることを全部、アンジェネに伝えたい。
僕はおずおずと口を開いた。
「最初に君に呼び出されて、友達になれって言われた時は、とにかく君のことが不気味に見えてしょうがなかった。自分のことを魔女だとか言うし……実際に、君が僕を縛る力はものすごく強かったから」
今から思えば、心底絶望した初めての経験かもしれない。
「君には振り回されたし、正直腹が立ったこともあった。けれど、君は今まで僕が出会った人間たちとは違っていた。君は多分、一度だって僕のことを、悪魔だからと怖がらなかった」
「ええ。エルのことを怖いと思ったことはないわ」
「僕は、それが嬉しかった。君と一緒にいることが、知らない内に楽しくなっていた。だから、君の心臓を食べる気にはなれなかった」
「エル……」
「それにね、悪魔は、主の意思に反することをすると、罰を受けるんだ。僕は君の思いに反して動いたけれど、罰は受けていない。君、本当は、死にたくなんてなかったはずだよ」
アンジェネは少し間をおいて、頷いた。
「……そうね。死にたくない、というより、エルとお別れになるのが嫌だったわ」
「僕もだ。君と二度と会えないと思ったら、心が痛かった。心臓はいらない。生きている君と一緒にいたい」
その思いが、僕のすべてだ。
「僕は悪魔だ。今まで多くの人を殺してきた。その事実は消せない。怪物の姿ももっている。そんな僕と、一緒にいてくれる?」
僕の問いかけに、アンジェネは柔らかい笑みを浮かべた。
「ふふっ、エルったら、最初に会った時とまるで違うわね」
そう言って、先ほど食堂で再開した時よりかはいくらか優しく僕に抱きついてきた。
「わたしがエルのことを好きなように、エルもわたしのことを好きになってくれたらどんなに素敵かしらって、ずっと思ってたわ。悪魔でも人間でも何でも構わない。これからも、わたしは貴方のそばにいたい」
「……ありがとう」
アンジェネの華奢な体を、すっぽり腕の中におさめた。彼女の温もりと、心臓の鼓動を感じる。
もう、心臓を食べたい、という欲は、少しも湧かなかった。
他の悪魔に、僕のこの気持ちが理解されることはないだろう。それでも良い。
何よりも大切なことがあると知ったから。
「わたし、エルが変身できるなんて知らなかったわ」
僕の胸に顔をうずめていたアンジェネが僕を見上げて笑った。
「そりゃ、言ってないからね」
「また、いつかあの姿、見せてくれる?」
「えぇ……、あれ、本当に疲れるんだよ? 何で見たいのさ」
「お話の中に出てくる竜みたいで、とっても素敵だったから」
そうだ、アンジェネはもともとこういう子だ。
僕は色々、心配し過ぎていたのかもしれない。
「……考えとく」
ぽん、とアンジェネの頭に手を置いて撫でる。
嬉しそうに目を細める彼女の姿を見て、今、こうして二人でいられることが、心底嬉しいと思った。




