23章 魔女アンジェネ
わたしに不思議な力があると気付いたのは、四歳を過ぎたくらいの時。
冷めてしまった牛乳がもう一度温かくなればいいのに、と思った時、本当に温かくなった。
高いところになっている果物が欲しいと思ったら、目の前にぽとりと落ちてきた。
転んで怪我をしてしまった時、痛いから治ってほしいと思ったら、あっという間に傷はふさがった。
でも、お父様もお母様も、周りの人もみんな、そんな力を使っているところを見たことがなかった。
だから、これはわたしだけの特別な力だと思って、ずっと秘密にしていた。
けれどある日、わたしにいつも優しくしてくれる召使のサミュエルが、お父様にひどく虐められるのを見てしまった。
わたしは、サミュエルが傷つくのが嫌で、お父様が振るう鞭を灰に変え、サミュエルの怪我を治した。
わたしの力を見たお父様とお母様はとても驚いて、すぐに大勢の大人が、わたしを取り囲んで色々なことを聞いてきた。
それでも、わたしの力の謎を解き明かせる人は国のどこにもいなかった。
わたしの力は魔法、魔法を使うわたしは、魔女。
お父様は、魔女のわたしを今まで住んでいたお城ではなく、森の中のお屋敷に一人で住まわせた。
初めのうちは、このお屋敷に住まなければいけないのは今だけで、後でお城に帰れるのだと信じていた。
お母様が何度もお屋敷に来てくれて、わたしと遊んで、お話をしてくれたから、あんまり寂しくはなかった。
だけどある夜、私は夢を見た。お母様が、病気で苦しんで、死んでいく夢。
わたしが怖い夢を見たとき、お母様はいつも、夢はただの夢。本当になることはないのと言って慰めてくれたけど、その時に見た夢は、恐ろしく鮮明で、まるで未来を現しているかのようだった。
わたしは小さいながら、図書室にある病気の治し方が書いてある本を読み漁って、理解できるだけのことをお母様にしてあげた。
何もしなければ、本当にお母様が死んでしまうと思って、必死だった。
お母様はそんな私を見て、何も心配いらないわと笑っていたけれど、しばらくして、お母様はまったくわたしの所へ遊びに来なくなった。
病気で倒れ、起き上がることもままならないと聞かされて、どうしてもお母様に会いたい、お城に連れて行ってと、時々お世話にやって来る侍女たちにどれだけ訴えても、侍女たちはかたくなに、時には泣いて謝られながら、それはできませんと言うばかりだった。
そして、ずっと会えないまま時が過ぎて、わたしが八歳の時、お母様は亡くなった。
それを聞かされた時、わたしは悟っていた。
あの日見た夢はただの夢じゃない。
あれはわたしの力の一部。夢で未来を見る力。
そして、その未来を変えることはできないのだ、と。
お母様はもう、わたしのところには来てくれない。
わたしは独りぼっちになってしまった。
侍女たちはお世話をしに時々来てくれるけれど、わたしは王女だから、あまり親しく接してくれることはない。
表向きは優しいけれど、時々、わたしのことを恐ろしいものを見るような目で見てきたり、怯えた様子を見せる人もいた。
それはきっと、わたしが魔女だから。機嫌を損ねたらどんなことをするか分からないからだったのだと思う。
お茶を飲むのも、本を読むのも一人。お喋りに付き合ってくれる人は誰もいない。
いつからか、わたしは、お友達が欲しいと思うようになっていった。
せめて一人だけでも、どんな人でもいいから、侍女ではない誰かに一緒にいて欲しい、だけど、そのお願いも聞き入れられなかった。
本やお菓子やドレス、「もの」はたくさんお屋敷に届いて、何も困らなかったけれど、わたしが本当に欲しいお友達が来ることはなかった。
お父様にとって、わたしは「人間ではないなにか」だっとのだと思う。
そんなある日、新しい侍女としてお屋敷に連れてこられたのは、わたしより三つ年上のエマという名前のひとだった。
年が近いということもあり、わたしとエマはすぐ仲良くなった。わたしのお話を、頷きながら聞いてくれた。
それでも、エマはあくまでもわたしの侍女、お世話をする役目をもった人だから、「友達」になってくれることはなかった。
前より少し、寂しくはなくなったけれど、それでもわたしの心はどこか、満たされないままでいた。
十二歳になった頃、ある晩、わたしは夢を見た。
夢の中のわたしは十六歳で、白い服を着て、木でできた舞台のようなところに立っていた。
目の前にはたくさんの人がいて、口々に、「魔女!」「殺せ!」と叫んでいる。
誰かに体を押されて、頭を台の上に乗せられる。
頭を少しだけ動かすと、鈍く光る刃が見えて、
それが、わたし目がけて振り下ろされる――
そこで、目を覚ましたわたしは、すべてを悟った。
これは、お母様が亡くなる夢を見た時と同じ。
わたしは、十六歳になったら死ぬ。多くの人に憎まれて、死刑にされる。
わたしが、魔女だから。魔女は悪役。物語の中でも、現実でもそれは同じ。
これは抗うことのできないわたしの運命。
人々の怒りと憎しみを背負って死んでいくことがわたしの使命。
必死に訴えれば、誰か助けてくれるかもしれない、と思ったけれど、夢が現実になるなんて、
ましてや四年も先のこと、きっと誰も信じてくれない。
そのころには、お屋敷を訪ねてくる侍女はエマだけになっていた。わたしが一番懐いていたし、エマはとても真面目にお仕事をしていたから、他の侍女たちがエマにすべて任せるようにしたのだと思う。
エマと二人でいる時に、わたしは十六歳になったら死ぬ、と言ってみた。
私は魔女だから、魔女は悪役だから、人に恨まれて死ぬの、と。
エマは困ったように笑って、そのようなことを仰るものではありませんよ、と言って、わたしの髪を優しくとかすだけだった。
わたしのことを心配してくれたようで、食事に好きなものを作ってくれて、いつもより少しだけ長くそばにいてくれたけれど、
わたしの言うことを信じてはいないようだった。
でも、それが当たり前なのだと分かっていた。エマは普通の人間で、わたしは魔女。
わたしは、「普通」の人間ではない。
けれど、どうしても諦められないことがあった。友達をつくること。
せめて数日だけでもいいから、友達と一緒に過ごしてみたかった。
独りぼっちのまま過ごして、三年が経ったある日、お屋敷に数冊の本が届けられた。お父様からだ。
その中の一冊を読んでいると、途中のページに、古い紙が挟まれているのを見つけた。
インクの文字もにじんでいたけれど、何とか読み取ることができた。
「悪魔の召喚方法」
紙には、そう書かれていた。
本の内容とは何の関係もなくて、どうしてその紙が挟まっていたのかは分からなかった。誰が書いたのか、名前も載っていない。
悪魔を呼び出す方法と、悪魔についてが書かれていた。
悪魔は、召喚者を主とし、主の命ずるままに動く
悪魔は人の心臓を好む
悪魔の主は、時が経つとともに力を失い、最後には悪魔に心臓を食われる
何でも願いを叶えてくれる悪魔。
わたしが望めば、友達になってくれるということだ。
残された時間は少ない、本当に悪魔が来てくれるのなら、もう、これしかない。
この紙に書いてあることが本当なのか、悪魔がどんな姿をしているのかも分からない。
小さな頃に読んだ本に出てきた悪魔は、鋭い牙と角がある、恐ろしい化け物の姿をしていた。
それでも良かった。
たとえ恐ろしい姿でも、言葉が通じなかったとしても、独りぼっちより、ずっとずっといい。
それに、わたしは魔女。処刑される運命を背負っている。
悪魔に心臓を食べられるより先に、首を刎ねられて死んでしまうのだから。
誰かに見つかってはいけないと、わたしは屋敷の地下室に降りて、紙に書いてあるとおりの手順で、悪魔を呼び出した。
わたしの前に現れたのは、背が高くてすらりとした、わたしより少し年上くらいに見える人間の男性の姿をした悪魔。
想像していたより、もっともっと素敵だった。
エルテンス、と名乗ったその悪魔をわたしはエルと呼ぶことにして、友達ができたらやりたかったことを、たくさん彼と一緒にやった。
嬉しくて、楽しくて、思えば、わたしはエルを散々に振り回していたと思う。わたしの思いだけを押し付けていた。
エルが一度、わたしの振舞いについて怒った時に、初めて自分の今までしてきたことを顧みた。
わたしとエルとの関係は、形式上は主人と、召喚された悪魔だ。だけど、わたしはエルに、友達でいることを望んだ。
本当の友達なら、一方的に何かしてもらうだけではない、お互いに助け合うものなのだ。
悪魔が一番好むのは、人間の心臓。それは用意できないけれど、何かわたしがエルにしてあげられることはないか、考えて、わたしが作るお菓子を、少しだけ美味しいと思ってくれたみたいだから、もっと美味しく作れるように勉強した。
人間の心臓の代わりに、動物の心臓をあげた時、エルは美味しくないと言ったけれど、怒らずにわたしの気持ちを受け取ってくれた。
エルは嬉しい、楽しいという感情はあまり表に出さなかったけれど、わたしがいない間に、一人で一生懸命に本を読んでいる姿は楽しそうで。
悪魔だから、もしかしたら人間のような感情は持っていないかもしれない、とわたしは考えていたけれど、
エルを見ていると、とても心がないだなんて思えなかった。
そして、いつの間にかわたしは、エルのことが、心から大好きになっていた。
死ぬことは怖くなかった、けれど、彼とお別れになるのが辛かった。
十六歳になる日が迫り、わたしはある決意をした。
わたしが死ぬ運命からは逃れられない。けれど、もしかしたら死に方だけは変えられるかもしれない。
エルは、契約が切れるまでわたしの心臓を食べることはできないけれど、わたしが心から、心臓を捧げると告げれば食べられるようになる、と言っていた。
わたしがエルに、心臓をあげると言えば、わたしは死んでしまうけれど、エルの一番の望みを叶えてあげられる。そして彼を自由にしてあげられる。
十六歳の誕生日、わたしはエルに、心臓をあげると告げた。
だげど、エルの答えは、いらない、だった。
エルの真意は分からない。けれど、心臓を食べることに何よりも執着していたエルが、それを望まなかった。
もしかしたら、エルもわたしのことが好きで、一緒にいたいのだと思ってくれていた、と少しくらい、自惚れても許されるだろう。
運命は変えられなかったけれど、悲しくはなかった。
エルをこれ以上巻き込むことは嫌だった。エルのいないところで最期を迎えたかった。
だから、エルには何も悟られないように、わたしは彼を魔法で眠らせた。
眠らせる前に、わたしはエルにキスをした。本当は必要のないことだったけれど、生涯でただ一人、心から好きになった男のひとだったから。
友達になってくれるだけで嬉しかったのに、恋までさせてくれた。これ以上幸せなことはない。
お別れの前に、用意しておいた手紙、どうしてもエルに伝えたかったことを書いたものを彼の上着のポケットに忍ばせた。
ほどなくして、エマ以外の人、国の人たちが屋敷に大勢押しかけてきて、わたしのことを連れて行った。
11年ぶりに戻ってきたお城で、お父様はすでに殺されていると知った。
そしてわたしは、王族の娘として、魔女として、革命のため殺されることになる。
夜が明けて、わたしは処刑台に立った。
いつか夢で見た通り、目の前にたくさんの人がいる。みんな、わたしを憎んでいる。
これが、魔女として、王女として生まれたわたしの役目。
わたしの死で、この人たちが憎しみから、辛さから解放されるなら、受け入れよう。
台の上に首を乗せたとき、浮かんだのはエルの顔だった。
エル、態度は少し冷たいけれど、本当はとても優しい悪魔、わたしの友達、初めて愛した男のひと。
もう、想いは断ち切ったはずだったのに、最期にもう一度だけ、彼の顔が見たいと願ってしまった。
誰にも分からないように、一粒だけ涙を流した、その時――
わたしの前に現れたのは、間違いなくエルだった。




