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1章 悪魔エルテンス

 口の中に、まだ微かに甘い血の味が残っている。

 食べた心臓が、まだ腹の中で脈打っているような感覚だ。

 美味しかった。あんなに痩せた男の中に、こんなに美味しいものがまだ残っていたなんて。

 そういう意味では人間は、価値のある存在だ。


 僕は小さな丘の上に腰を下ろしていた。人間の世界に呼ばれていない間は、ここで過ごす。

 ここは悪魔たちだけが住む世界。地形の起伏は少しあるが、他にはほとんど何もない。木も、水もない。

 今座っている丘の土は、濃い紫色をしている。空の色は気まぐれで、赤くなったり灰色になったりする。


 人間から見れば、この世界も、僕たち悪魔の見た目もかなり奇抜なことだろう。

 人間の髪の色は大体黒か茶色か金かで、瞳の色も黒か茶色か、青くらいなものだが、悪魔の場合は本当に様々だ。

 僕はというと、髪は人間の世界でいうところの草のような明るい緑で、瞳は金色をしている。

 だが、土や空がどんな色をしていようが、僕たちには関係がない。人間の世界はものが溢れかえっていて、鬱陶しいぐらいだった。それに比べればよっぽどましだ。

 時々、生きた人間がここに放り込まれてくれるなら、ずっとここにいたい。


 だけど、世の中はそんなに甘くはない。それは人間にとっても、僕らにとっても同じだ。

 僕たちは主人となった人間に嫌々ながらも仕え、時が満ちたら心臓を得る。

 僕らを呼び出した人間は僕らの力で欲しいものを手に入れ、最後に心臓を失う。

 それが、僕たちを縛る唯一の理だ。「契約」と呼ばれる。

 僕たちのことを人間は悪魔と呼び、僕たちも自分のことはそう名乗るが、本当は、自分が何者かなんて考えたことはない。善と悪の認識も持っていない。

 壊す、奪う、殺す、人間はこれらを悪と言うが、悪魔には関係のないことだった。


「エルテンスじゃないか」


 後ろから声をかけられ、振り返った。そこに立っていたのは、顔見知りのレイウスだった。僕と同じ、若い男の姿をした悪魔だ。

 僕たちは基本的に一人で行動することが多く、別に馴れ合いたいとも思わない。

 人間の世界に一度呼び出されると、自分の力で帰ってくることはできないから、数日、長ければ数年、もっと長く戻らないこともある。そんな中でも、レイウスとは出会う度に、少しは話をする間柄だった。


「思ったより早かったな」


 レイウスはそう言いながら、僕の隣に腰を下ろした。


「まあね。でも、稼ぎは悪くなかった」


 つい先ほどまで僕の主人として振る舞っていた男は、権力だの富だのを求めて、僕を呼び出した。自分がのし上がるために、邪魔な人間を次々と殺すよう、僕に命じた。

 もちろん、殺した人間の心臓は食べても構わない、といういい条件がついている。おかげで、それなりに心臓にありつくことができた。

 男が自分の手を一切汚さずに権力を手にするのは少々いただけない気もしたが、特に気にする問題ではない。そもそも権力だの財産だの、そんなものはがらくた以下だ。

 くだらないものに縋りつく人間なんて、僕にとっては虫に等しい。


「いいなぁ。俺はまだあれからお呼びがかかってない」

「へぇ。残念だね」


 僕はそう言いながら、被っている白い帽子のつばを指ではじいた。この帽子は僕のお気に入りで、頭の部分が高めに作られていて、つばがぐるりと一周囲っている。

 帽子の腰の部分には、赤いリボンが巻き付けられていた。

 人間たちには流行りや身分相応の服というものがあるらしいが、僕たちにそんなものはない。

僕は金のボタンがついた、白い上着と長ズボン、ぴかぴかの革靴が気に入っているけれど、

レイウスはシャツの上に革製の袖のない上着を着て、だぶだぶのズボンをはいている。足は裸足だ。正直、僕にはあまり理解できない。だが、僕たちは皆それぞれが、好きな恰好で暮らしている。


「心臓の一つくらい俺のために持って帰ってきてくれてよかったんじゃないのかよ?」


 冗談めかした口調でレイウスが言った。


「嫌だね。逆の立場だったら、そんなこと絶対しないだろ?」


 僕がにやりと笑うと、レイウスも笑って、僕の背中をぽんと叩いた。


「ああ。しない。あんな美味いもの、他の奴らに分けてたまるか」


 レイウスは立ち上がると、腕を上にあげて伸びをした。


「そろそろ行く。お呼びがかかるかもしれないからな」

「だといいね」


 できれば、次に呼ばれるのも僕であって欲しいけれど。

 レイウスが立ち去った後も、僕はそのまましばらくぼんやりと座っていた。

 別にいつまでも座っていたって誰にも何も言われないけれど、それでは心臓にありつけない。

 立ち上がり、どこまでも広がる紫色の地面の上を歩いていった。


***


 どのくらい歩いただろうか。レイウスは違う方向に行ったようだし、他に誰にも会わない。

 この分だと、見つかりそうにない。もう少し進むか、違う道を行くか、考えるために立ち止まったその時だった。

 僕の目の前で、青い炎が柱となって燃え上がった。見かけは炎のようだけれど、熱くはない。

 これはまさしく、人間の世界で、誰かが僕らを呼び出す儀式を行ったしるしだ。ここに飛び込めば、人間の世界へ移動し、新たな主人と相まみえることになる。

 僕たちはこのしるしを探しまわり、見つけたら飛び込む。どれほどの心臓が食べられるか期待しながら。

 目の前の青い火柱は空高くまで伸びあがっている。他の奴らに見つかったら、こちらへやってくるだろう。レイウスだって来るかもしれない。

 一歩踏み出し、炎の中に立った。視界が霞んでいく。僕は目を閉じた。次に目を開けたら、人間の世界だ。

 今日はずいぶんと運がいい。

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