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17章 人間というもの

 満月が浮かぶ夜、屋敷の倉庫に眠っていた小舟に乗りたいとアンジェネにねだられ、彼女曰く秘密の場所である湖にやって来ていた。

 小舟を水面に浮かべ、その上に僕が先に乗った。手を伸ばし、アンジェネの腕を支えて小舟に乗せ、櫂を使って漕ぎ出す。

 明かりは頭上に輝く月と、アンジェネが持ってきた魔法の灯のランプだけだが、小さな舟を操るだけなら十分だ。


「エルは本当に何でもできるのね」


 小舟のへりに手をかけ、アンジェネは機嫌よく湖面を覗き込んでいる。


「僕も君も水の上を歩けるんだから、わざわざこんなのに乗らなくたっていいと思うけど」

「こうやってゆらゆら浮かぶのも楽しくない?」

「別に。とにかくあんまり身を乗り出すのはやめてね。落ちると面倒だから」


 小舟に欠陥がないことは一応確認はしたけれど、精巧なものではない。体重を片方に寄せ過ぎれば間違いなく転覆だ。

 ゆっくりこぎ続け、ちょうど湖の真ん中辺りまで来たところで、僕は漕ぐのをやめ、空を見上げた。

 月の他に、瞬く星がいくつも見える。夜のひんやりとした空気は、なかなかに心地いいものだった。


「……綺麗ね」


 僕につられて上を見上げたアンジェネが呟いた。

 彼女の「友達」として暮らして、はや数か月が経つ。

 誰かを殺せと命じられることもなく、心臓にありつけるはずもない。

 今まで体験したことのない、穏やか過ぎる生活。

 アンジェネはこれからもずっと、僕が友達でいることだけを望み続けるのだろうか。

 他の人間たちと同じように、殺したいほど憎い誰かはいないのだろうか。


「アンジェネ」


 僕が呼び掛けると、長い睫毛に縁どられた、青い瞳がこちらを見た。


「なあに?」

「君、叶えてほしい望みとかないの?」


 アンジェネは不思議そうに首を傾げた。


「もう叶えてもらったわ。エルが友達になってくれたから」

「それは置いといて、他に、だよ。殺したいほど憎い相手とか、邪魔だから消えてほしい相手とか……。もしいるなら、僕に命じてくれれば片づけてあげられる。君の手はまったく汚れること無しにね」


 アンジェネが眉間にしわを寄せた。


「エル、どうしてそんなに悲しいことを言うの? 心臓が欲しいから?」

「ちがう……いや、違わないけれど……」


 心臓を食べたいという気持ちはもちろんあるけれど。


「……今まで、僕と契約した人間たちは、誰かを恨んでいたり、邪魔に思っていたり、そんな奴らばかりだった。人間は皆、誰かを憎みながら生きている。僕にとっては人間ってそういうものなんだよ。友達になって欲しいなんて言われたことがない。君は、今まで僕と契約してきた人間とは、まったく違うんだ」


 アンジェネは、しばらく何かを考え込むかのように、黙っていた。

 しばしの沈黙の後、僕の向かいに座っているアンジェネの白い両手が伸びてきて、僕の手をそっと包み込んだ。


「可哀想だわ」


 ぽつりと彼女が言った。


「エルは、今まで悲しい目にばかり遭ってきたのね」

「僕は今まで、悲しいなんて思ったことはないよ。僕に、人間の心はない」


 僕は数百年の間、憎しみ、欲望、思い上がりで己を破滅させる人間を何人も見てきた。

悲しいと思ったことはない。くだらない奴らだと、冷めた目で見ていただけだ。


「それは、きっと気づかないふりをしているだけ」


 アンジェネの手から、彼女の体温が伝わってくる。


「他の誰かを憎みながらしか生きられない人も、確かにいるわ。けれど、本当に正しいのは、誰かを愛して生きることよ。人間の手と心は、他の誰かを愛するためにあるの」


 また愛の話か。

 僕には、悪魔には、愛なんてものは分からない。理解などできないのに。

 それなのにアンジェネは、僕のことを真っすぐ見つめて語りかける。

 僕になら、きっと分かるという確信があるように見えた。

 その目があまりに真剣で、僕は思わずたじろいで、アンジェネに握られていた手を引っ込めて彼女から目を逸らした。


「……悪魔に愛を説くなんて、君って相当変わってる」


 彼女のことを変わってると思うのは今日が初めてではないけれど。

 アンジェネの言う通り、本来の人間の姿は誰かを愛するものだというのなら、今まで僕が見てきたものは間違った人間ばかりで、それを彼女は悲しいのだと言っているのだろうか。

 僕の言葉に、アンジェネは少しだけ、顔を曇らせた。


「……変わっていたら、いけないのかしら?」


 その表情を見ていたら、なぜだか胸の奥がざわざわした。

 何か言葉をかけないといけないと思った。けれど何て言えばいいのか分からない。


「別に駄目だなんて言ってないよ。変わってようが何だろうが、君は僕の……友達なんだし」


 考えを巡らせ、やっとのことで僕が付け加えると、アンジェネに笑顔が戻った。


「ありがとう、エル」


 彼女の笑顔を見ると、胸のざわざわは消えた。けれど今度は、心臓の鼓動が速くなる。

 ああ、やっぱり何かおかしい。

 いつからか、アンジェネと接していると、時々、心臓をぎゅっと握られるような、妙な感覚をおぼえるようになった。

 不快感ではない。けれど、今まで感じたことのない、どう表現していいのか分からない気持ち。

 エマといる時には普通でいられる。アンジェネにだけ抱く感情、恐怖でも、憤りでもない、何か。

 それだけではない。さっきみたいに、アンジェネが悲しそうな顔をすると気持ちがざわざわするし、前に、彼女が呼び出したのが自分ではなく他の悪魔だったら、と考えた時はもやもやした。

 どうしてこんなに感情を乱されるのだろう? この気持ちを何と呼べばいいのだろう?

 この気持ちを打ち明けるべきか、迷っていると、アンジェネが小さくくしゃみをした。


「上着を持ってきたらよかったわね」


 そう呟いて膝を抱える彼女の姿を見て、いくらか冷静さが戻ってきた。


「冷えてきたんだ。そろそろ帰ろう」


 僕が櫂を握り再び舟を漕ぎ出すと、アンジェネはすがるような目でこちらを見た。


「もう? まだ来たばかりだわ」

「いや、結構経ってるよ」

「でも……」


 なおも不服そうなアンジェネに、僕は小さくため息をついた。


「君が病気にでもなったらエマに何て言われるか分からない。また来ればいいじゃないか。漕ぐのは僕がやるからさ」

「……エル、だったら一つだけ教えて」

「なに?」


 僕は一旦手を止め、彼女の次の言葉を待った。


「もし、今すぐにわたしをここから連れ出して、とっても遠いところへ一緒に行って、この森には二度と戻らないでって言ったら……叶えてくれる?」

「え? そりゃ、本当にそれを望むならやるけど……」


 どうしていきなりそんなことを言い出すのだろう。

 アンジェネは、やはり自分の置かれている状況が不満なのだろうか。


「本気なら、ちゃんと命令して」


 しばしの間、沈黙が流れ、アンジェネが小さく首を振った。


「……いいえ、やっぱりいいわ。我儘を言ってごめんなさい。お屋敷に帰りましょう」 

「そう、別にいいけど……」


 再び櫂を動かす。アンジェネは黙って、小舟に揺られていた。

 何かを考え込んでいるような、どこか沈んでいるようにも見える様子だったけれど、その表情から感情を読み取ることができなかった。

 湖から屋敷へ戻る間も、彼女は何も言わず、屋敷に着いた後も、お休みなさいとだけ言って、自室へ戻っていった。

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