16章 わずかな変化
今日は久しぶりにエマが来て、屋敷の中のものを色々と補充してくれた。
特に、彼女が新しく持ってきた本をアンジェネはいたく気に入り、一日読みふけっていた。
夜中を過ぎた頃、僕は食堂の席に座って、せっせと片づけや準備をするエマをぼんやり眺めていた。寝る気になれなかったので、ほんの暇つぶしだ。
時々しか屋敷に来ないとはいえ、朝早くから夜遅くまで、つくづくよくやるものだ。
僕が彼女の立場なら、自分が働いているのに何もせずただそこにいるだけの奴がいたら、少しは手伝え、と言いたくもなるが、エマは僕に対して文句の一つもこぼさなかった。
「そんなに働いて、嫌になったりしないの?」
僕が尋ねると、彼女は笑みを浮かべて頷いた。
「お仕事はとても楽しいですし、私はこう見えて丈夫ですから、辛いと感じたことはございません」
そう言って、食堂の奥の厨房に引っ込んだ。
エマと知り合ってしばらく経つ。最初は彼女の方がかなりぎこちなかったが、時が過ぎるにつれ、段々と態度は柔らかくなっていた。
僕と会話をする機会はあまり多くないのに、どうしてなのか少し不思議だった。
しばらくして、エマがお盆の上にカップを乗せて戻ってきた。そのカップが、僕の前に置かれた。
「え、何これ?」
カップの中で、茶色い飲み物がほかほかと湯気を立てている。ほのかに甘い匂いがした。
「エルテンス様は、甘いものなら美味しく召し上がれるとアンジェネ様からお聞きしていましたので」
「別に、何か欲しくてここにいるわけじゃなかったんだけど……」
僕が積極的に食事をしないことはエマも知っている。
「折角ですので一口だけでもどうぞ。アンジェネ様もこれが大好きなのですよ」
エマに言われるがまま、カップの中身を一口すすった。甘いけれど、少しだけ苦い。でも嫌な味ではなかった。
「……おいしい」
僕が言うと、エマは嬉しそうに笑った。
「良かったです」
「何で、僕にこんな風にしてくれるの?」
主ではない別の人間から、何かをしてもらった記憶はない。
僕が悪魔だと知った人間は、皆、怖がって近寄ってこない。僕も、襲ってもいい対象でない人間のことなんて気にとめたことがなかった。
「エルテンス様がいらしてから、アンジェネ様はとても楽しそうにされています。私も、それが嬉しくて。最初は悪魔がお友達だなんて、不安でしかなかったのですが……。それは余計な心配でした。貴方は、アンジェネ様のとても素敵なお友達です」
「僕は別に……」
これはあくまでも契約で、僕はアンジェネに従っているだけだ。
エマと僕の間には何の定めもない。彼女が何かしようがしまいが、僕とアンジェネの間の契約には何も影響がない。
「私にできることは限られていますが、せめてこのようなことだけでもさせて頂きたくて。
独りよがりなのは承知のうえです。ご迷惑でしたら申し訳ございません」
「いや、迷惑ではないけど……」
誰かが、僕のために何かしてくれた、ということがあまりにもなさ過ぎて、何だかむずむずする。
「君はアンジェネの召使なんであって、僕に仕える必要はないからさ」
僕だって、心臓が食べられるという望みがあるから人間の言うことを聞く気になれるが、何も得られるものがなければ誰かに従うなんて絶対に嫌だ。
「ええ。私はアンジェネ様にお仕えする身です。ですから、アンジェネ様が信頼を置く方には、私も誠意をもって接する所存です」
まったく見上げた忠誠心だ。エマも、僕がなかなか理解に苦しむ系統の人間であるらしい。
「そんなにアンジェネのことが大事なら、君が友達になればいいのに。そしたらそんなかしこまった態度もとらなくてよくなるじゃないか」
最初からアンジェネに人間の友達がいれば、彼女だって友達になってもらうために悪魔を呼び出すなんていう正気じゃない行動をとらずに済んだはずだ。
「……そういう訳にはまいりません。私はあくまでも下働きです」
エマは目を伏せ、そう答えた。
人間たちの、それぞれの身分や立場によって変わる関係は、つくづく面倒だ。
僕はカップの中身をごくりと飲んだ。ほどよい温かさが喉を通り抜けていく。
「君は、アンジェネのことどう思ってるの?」
ふと気になって、聞いてみた。
「アンジェネ様は、とてもお優しい方です」
エマははっきりと言った。
「ご自身が傷つくことよりも、周りが傷つくことを何よりもお辛く思う方です」
そういえば、僕が化け物に傷を負わされたとき、アンジェネは怒りを露わにしていた。
あんなに激しく憤った彼女を、あれ以来見ていない。
「それにとても純粋で、正直でいらっしゃいます……少し、寂しがりなところはありますけれど」
エマはふふっと微笑んだ。少しは不満の一つでも出てくるかと思ったけれど、特にそういうものはないらしい。
「私は、あの方にお仕えできて、とても幸運だと思っております」
「こんな森の中までわざわざ来ないといけないのに?」
ここから、エマが普段いる場所までどの位の距離があるのかは分からないが、少なくとも人間の女が往復するには辛いのではないかと思う。
「ええ。それでも、私は満足しております」
「……変わってるね」
自分ではない、他の誰かを信じて尽くすなんて、それで本当に満足できるのだろうか?
僕には、到底考えられない話だ。
それでも、エマの話しぶりからは、彼女が嘘をついていたり取り繕おうとしているようには感じられなかった。
僕はカップの中を飲み干し、席を立った。もし機会があれば、また飲んでみてもいいと思える味だった。
この屋敷に来て、人間の食べ物をちょくちょく口にするようになるまで、自分にも味の好みがあるなんてまったく気づかなかった。
「片づけておきますので、そのままにしておいてください」
「うん……あの、ありがとう」
多分、僕が何も言わなかったとしても、エマは気にしないのだろう。
だけど、彼女が僕のために飲み物を出してくれたことに悪い気はしなくて。
してもらったままで終わるのは、何だかよくないように思えた。
エマは少し驚いたような顔で僕を見たが、すぐに笑みを浮かべて
「こちらこそ、お話ができて楽しかったです」
と言った。
彼女との関係を友達と呼んでいいのかは分からなかったけれど、僕たちの間にあった壁が、なくなったような気がした。




