14章 愛を知らぬ悪魔
僕は男に連れられて、墓場に来ていた。朝の光が照らしているが、生き物の気配がない、やけに静かな場所だった。
墓。死んだ人間を埋めて、目印に石を置いておく場所。人間の風習。
知っているのはそれだけだった。僕にしてみれば、あまり意味があるとは思えない。
男は、墓場の隅の方に、行儀よく二つ立って並んでいる、四角く切られた石の前にひざまずき、そっとそれらを撫でた。
「妻と娘の墓だ。もし、死に場所を選べるなら、ここにしようと思っていた」
男は立ち上がり、後ろに立っていた僕に向き直った。
「色々とありがとう。君のおかげで望みが叶った。最後にわがまままで聞いてくれるなんてな」
男はそう言って微笑んだ。これから僕に心臓を食われて死ぬのに、どうして落ち着いていられるのか不思議だった。
今まで出会った人間たちは、皆、死ぬことに抗おうとしたのに。この男は、命乞いもせず、絶望の表情すら見せない。
「怖くないの」
余計な言葉はかけないつもりだったけれど、僕は思わず尋ねていた。
「そうだな。怖くないといえば嘘になる。けれど、今の私には、生きていることの方が辛い」
それに、と男は続けた。
「もしかすると、あちらの世界で家族にまた会えるかもしれない」
人間の中には、死後の世界があるという考えがあるらしい。生前の行いによって、行くところが変わるとか。
僕からしてみれば、子供だましのつまらない物語と同じだ。死んだらそこで終わり。行くところなんてどこにもないと思っている。
「……いや、家族の待つところには行けないかもな。悪魔まで呼び出して、人を殺したんだ。きっと、死後も苦しみ続けるだろう」
「探せばいいじゃないか」
僕が言うと、男は少し驚いた顔をした。
「家族とやらを、探せばいい。君のいう死後の世界があるのならね。悪魔の力を使ってまで復讐を果たす執念があるんだ。君なら見つけられるよ」
どうしてこんな慰めのような言葉をかかけたのか、自分でも分からなかった。この男が奇妙過ぎて、僕も少しばかりおかしくなっていたのかもしれない。
「はは。君は本当に悪魔か? 悪魔が励ましてくれるなんてな」
男は笑って、僕の手を取り握りしめた。
「ありがとう。本当にありがとう。家族を見つけるさ。何百年かかってもね」
そうして男は僕の手を放し、その場に、家族の墓の前に腰を下ろした。
「さあ。ひと思いにやってくれ。もう少ししたら誰か来るかもしれない。そうなると厄介だ」
僕も男の片膝をついて座り、彼の目を見た。
「君に、わたしの心臓を渡そう」
その時、「鎖」が切れる感覚があった。男は「生」を手放した。もうこの男は僕の主ではない。餌だ。
片手で男の首を掴み、もう片方の手で胸に手を伸ばす。
「わたしの……名前は……ディヴィッドだ」
僕に首を掴まれながら、男は声を絞り出し言った。
そういえば、彼の名前を聞いていなかった。
けれどどうして今になって名乗ったのか、僕には分からなかった。
今まで、僕に自分の名前を教えた人間はどのくらいいただろう?
「もし良かったら……覚えていてくれ。この愚かな男の名前を……」
「……さよなら。ディヴィッド」
僕は呟くと、ディヴィッドの胸から心臓を引き抜いた。命を失った彼の体が、どさりと倒れた。
心臓をかじると、生温かく甘い液体が口の中を満たす。彼の命を奪うことに、ためらいはなかった。今まで、何度もしてきたことだ。
ディヴィッドの顔は、安らかだった。心臓を引き抜かれて死んだとは思えない、穏やかに眠っているような顔。
今まで僕の餌になった人間は皆、最後まで生にすがりつき、苦悶の表情を張り付けて死んでいったのに。
心臓を食べ終えたところで、視界がかすんできた。僕らの世界に戻る時だ。
だんだん周りが見えなくなっていく中で、ディヴィッドの姿だけは、なぜか最後まではっきりしていた。
***
「はい。これでおしまい」
話を終えて、これでアンジェネも寝てくれるだろう、と思ったけれど、彼女は黙ったまま、俯いていた。
「……なに、悪いけど文句は受け付けないよ」
これで話にけちをつけられたら、本当に打つ手がなくなる。
「……ううん」
アンジェネは小さくかぶりを振って、僕の方へ顔を向けた。
「エルは、ディヴィッドさんのことを、とてもはっきり覚えているのね」
確かに、この話を始める前は、こんなにディヴィッドとの記憶がはっきり残っているなんて思っていなかった。
彼以外の人間のことは、ほとんど覚えていない。名前も、顔すらも。
それだけ、ディヴィッドは僕の中では異質な存在だったということだろう。
「……君は、彼のことを愚かだと思う?」
さっさとアンジェネを寝室に帰すべきだったのだが、僕は思わず問うていた。
「いいえ。思わないわ」
アンジェネはきっぱりと言った。
「どうして?」
「ディヴィッドさんのしたことは……正しいことではないかもしれない。けれど、本当に家族のことを愛していたのよ。愛は、深ければ深いほど、強い力を持つの。ディヴィッドさんが自分の気持ちに真っすぐに生きて、納得して死んでいったのなら、私は彼のことを愚かだと言うことはできないし、そうは思わないわ」
「ふぅん……。僕にはよく分からないな」
愛が力を持つ、僕にはぴんと来ない話だった。
(愛するものを失うことは、とてもとても心が痛いんだ)
ディヴィッドが言っていたことがまた思い出される。
彼の家族が殺されることもなく生きていたら、ディヴィッドはきっと、悪魔とは縁のない普通の生活を送っていたのだろう。
大事なものが、愛するものが奪われたから心が痛くて、それは力になって、彼は僕を呼んだ。
愛とは、そんなにも強く人間を動かすものなのか。
「でもね、ディヴィッドさんのところに行ったのがエルで、良かったと思うわ」
「なんで? 悪魔なんてみんな同じだよ」
「わたし、他の悪魔には会ったことがないけれど……エルは優しいから。ディヴィッドさんは、最後にそばにいてくれたのがエルで、良かったと思っているはずよ」
「優しい? 僕が?」
悪魔に優しさなんていう概念はない。人間に従うのは命令されるから、「鎖」で縛られているから、心臓を喰らうため。それが全てだ。
「だって、最後にディヴィッドさんに、家族を探せばいいって励ましたでしょう?」
「それは……」
確かに、励ませなんていう命令はなかった。あの時は、なぜか言葉が口をついて出て……。
黙り込んでしまった僕を見て、アンジェネが僕の手をそっと握った。
「エル、貴方はとても優しいわ。わたしにだって、とても親切にしてくれるもの」
アンジェネに親切にした覚えなんてない。アンジェネと一緒にいる間は、常にふて腐れたような態度でいる自覚はあるし、ひどいことだって言った。
なのに、どうしてアンジェネは僕を優しいだなんて言えるのだろう。
「さて、約束だものね。ちゃんと寝るわ」
僕が何か言う前に、アンジェネは立ち上がった。
「エル、お休みなさい」
「あ、うん……」
アンジェネを見送った後、僕はそのまま寝台に寝そべった。
ディヴィッド、奇妙な男。
自分が成り上がるためでも、欲しいものを手に入れるためでもない。
大切なものを奪われたことへの復讐を果たし、大切なものが消えたこの世からいなくなることを望んだ男。
自分の復讐のための手段に過ぎないはずの僕に、感謝をして、名前を教えた。
彼は、僕を自分と対等な存在として、もしかしたら友達として、扱っていたのだろうか。
今となっては、確かめる術はない。
けれど、死を前にしたディヴィッドに言葉をかけた僕も、心のどこかで彼を、対等な存在と感じていたのかもしれない。
彼は家族を見つけることができただろうか。
長話をしてしまったせいか、色々なことを考えすぎたせいか、僕はそのまま、眠りに落ちていった。




