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13章 ある男の物語

 再び、平穏な日常が戻ってきた。

 いつも通りの、アンジェネと二人、時々、エマが訪れるだけの生活だ。

 どんなに退屈に感じる日々であっても、不思議なもので慣れてしまう。

 真夜中に差し掛かろうかという頃、寝台に座ってくつろいでいると、部屋の扉を叩く音が聞こえ、思わず身構えた。アンジェネだ。

 もう化け物はいないはずなのに、こんな時間に何の用だろう?


「入って」


 とりあえず扉に向かって声をかけると、そっと扉が押され、アンジェネがひょこっと顔を出した。申し訳なさそうに部屋に入って来て後ろ手に扉を閉める。


「エル、まだ寝ない……?」

「まだもなにも、僕は寝ないけど。何か用?」

「あのね、眠れないから……何かお話をしてほしいの」

「はぁ?」


 ……化け物を相手にするより面倒かもしれない。


「どんなお話でもいいの。一つ聞いたら眠れそうだから……」


 とはいっても、僕に話せるようなことはない。図書室にある本の話なら、アンジェネも大体は知っているだろう。


「話なんて何もできないよ。適当な本でも読めばいいじゃないか」


 僕がそう言っても、アンジェネは小さくかぶりを振った。


「エルのお話が聞きたいの。今まで見てきたこととか、どんな人に会ったかとか……」


 僕が見てきたことなんて、人間のくだらない権力争いだとか、何もかも失って転がり落ちていく様とか、そんなものばかりだ。

 僕は眠らないけれど、もし眠ることになったとしてもその前に聞きたいような話ではない。どうせ結末は僕が心臓を食べて終わりだ。


「あのねぇ、何か勘違いしているかもしれないけど、君がよく読む本に出てくるような冒険とか、僕は一切してないからね?」


 諦めて自分の部屋に帰ってくれることを願ったが、アンジェネは引き下がらなかった。


「本当に、ほんとうになにもないの?」


 懇願するような目で見つめられ、僕は呻きながら片手で眉間を抑えた。


「あー、もう。わかったよ、何か思い出すから」


 まったく、いつから僕はアンジェネのこういう目に弱くなってしまったんだろう。

 しばらく自分の記憶を辿ったところで、ふと、一人の男のことを思い出した。

 どの位前だったか、そんなに昔でもなかったと思う。僕を呼び出した、ある一人の男。もちろん、最期は僕に心臓を食われて死んだ。

 だけど、その男は、今まで僕の主となった他の人間とは違っていた。

 その時見たことが、少しずつ思い出されてきた。これなら、アンジェネもきっと文句は言わないだろう。


「ひとつあった。前に僕を呼び出した人間の話。何もかも覚えてるわけじゃないけど」


 僕が言うと、アンジェネの顔がぱっと輝き、僕の隣にちょこんと腰かけた。


「これ聞いたら大人しく寝てよね」


 念のため釘を刺した後、僕は、話し始めた。


***


 座り込んで呆然としているその男は、痩せていて、お世辞にも綺麗とはいえない身なりだった。

 不潔、とまではいかないけれど、とにかく装いを整えるのを後回しにし続けたような姿、白いものが混じったぼさぼさの髪とぼろぼろの服。

 だけど、目にだけは強い力が宿っていた。執着のような、強い思いが現れていた。


「ああ、本当に現れた……」


 男は目の前に立つ僕を見て、うわごとのように呟いた。

 どうやら、僕を呼び出すだけで精神力を使い果たすような人間ではないようなので、僕は男に声をかけた。


「僕は悪魔エルテンス。君の望みを叶える代わりに、最後に心臓を……」


 僕が最後まで言い終わらないうちに、男は立ち上がり、僕の手を強く握ってきた。


「望みは一つだ。殺したい奴がいる。手伝ってほしい。何が何でも。とにかく、そいつを、何としてでも……!」


 狂人まがいの奴に引っかかってしまったか。こういう奴はたまにいる。ろくに話が通じない奴は面倒だ。

 顔をしかめる僕に対し、男は更に声を絞り出した。


「悪魔は心臓を喰うんだろう?あいつの息の根を止めるのを手伝ってくれたら、そいつの心臓はやる。それが済んだら、わたしの心臓も……!」


 僕はすがりついてくる男をまじまじと見つめた。

 悪魔の主となった人間は、力を使い果たす前でも、自ら己の心臓を悪魔に渡すと意思を示すことで、契約を終わらせることができる。

 意思さえあれば、悪魔はその通り、その人間の心臓を喰らうことができるが、そんな自殺行為をする人間なんてまずいなかった。


「だから、あいつを殺すまでは、どうか待ってくれ……!」

「分かった分かった。僕は逃げないから、まずその手を離してよ」


 僕が言うと、男は素直に手を離した。とりあえず、会話が成り立たない狂人ではなさそうだ。

 何にせよ、僕に触ってきた時点で、契約はすでに成立してしまっている。この男は僕から逃げられはしない。


「で、殺してほしいのは誰?」


***


 男は僕に、「殺人鬼」を殺して欲しいと頼んだ。

 「殺人鬼」は男の住む町に潜んでおり、既に何人も犠牲が出ているらしい。

 僕を呼び出したこの男の家族も、「殺人鬼」によって命を落とした。

 つまり、男の目的は復讐というわけだ。

 殺人鬼の住処はすでに分かっていて、そこに戻って来る時間もあたりがついているらしい。

 何人も犠牲者を出しているような殺人鬼がまだ捕まっていないということは、よほど隠れるのがうまい人間なのではと思うけれど、この男はどうやってそれを調べたんだろう?

 まあ、さして興味はないし、詮索する気もない。それにこの男の姿で、何となく察しがつく。

 きっと、殺人鬼の居場所をつかむため、時間も、財産もすべて投げうってきたのだろう。

 そうまでして復讐にこだわるなんて、よほどそいつが憎いらしい。

 殺人鬼は明日の朝、自分の住処に戻って来るはず。

 明け方に奴の住処に忍び込み、奇襲をかける、というのが男の作戦だった。

 それまでは寝ずに待つことになり、僕と男は二人、路地裏の狭い空き地で小さな焚火の前に座っていた。


「すまないね、大した場所を用意できなくて」


 ぱちぱちと音をたてて燃える焚火を見つめながら、男は申し訳なさそうに言った。

 今はなかなか寒い季節で、夜ということもあり、小さな焚火では人間を一人温めるには頼りない。

 僕は寒さなんて大して気にはならないけれど、男の方はぼろぼろの外套を体に巻き付け、かすかに震えている。


「いや、僕はいいけれど。命じてくれれば暖かいものぐらいどこかから見つけてくるよ」


 どうせ僕に心臓を食べられて死ぬ人間だから変な心配なんていらないはずだったけれど、震える男の姿がさすがに惨めに見えた。


「それか、もっと火を大きくするよ。僕の力ならそのくらいなんてことない」


 火の前に手をかざした僕を、男が制した。


「いや、やめてくれ。ここらの建物は燃えやすいんだ。ちょうど、空気も乾燥しているし。この町を火事にする気はない」


 どうせもう長くない命だから寒くたっていいよ。と男は笑った。


「そんなに、復讐がしたいわけ」


 詮索はするまい、と思っていたけれど、じっと座っていると暇というのもあり、僕は男に尋ねてみた。

 財産も、時間も、人間にとってはとても大事なもののはずだ。

 なのに、それを手放して、悪魔を呼び出してまで、強く強く復讐に固執する、その気持ちが不思議だった。


「言っただろう。家族を殺されたんだ。わたしが帰ってきたときには、妻も子も、体を引き裂かれて……」


 男の声は震えていた。


「すぐに、わたしも後を家族の追えばよかったのかもしれない。けれど、このまま奴を放っておいたら、もっと多くの人が死に、悲しむ人が増えていくばかりだろうと思ったんだ。誰かが奴を止めないといけない」


 そこで男は言葉を切り、いや、と自嘲的に笑った。


「それは綺麗ごとにすぎないな。ただただ奴が憎くて、憎くてしょうがないんだ」

「ふうん」


 家族というものが、奪われるというのはそんなに辛いことなのだろうか。

 僕には、というより悪魔には、家族なんてものはいないし、誰にも頼らずに生きていくから、男の気持ちは少しも理解できない。


「復讐に囚われて、己を見失っているのは分かっている。わたしのしていることはきっと間違っている。けれど、愛する者を奪われるということは、とてもとても心が痛いんだ」


 愛、人間たちがつくりあげた、目に見えない何か。目に見えないから、でっち上げて、愛を騙って人を痛めつけることもできる。

 僕はそんな人間を何人も見てきた。僕には、愛なんて分からないし、そんな形のないものにすがらないと生きていけない人間は、哀れだとも思う。


「聞いておいて悪いけれど、僕には家族がいないし、愛なんてものも、分からない」

「そうか……。気を悪くしないで欲しいが、わたしには君が、少し可哀そうに思えるよ」


 別に、気を悪くはしない。というより、この男は別に特別でもなく、ただの一人の人間にすぎないのだ。

 僕にとって価値があるのは、この男の心臓だけだ。思想なんかどうでもいいし、哀れまれたって何とも思わない。


「……勝手にすればいいよ」


 僕はそれだけ言って、そのあとは何も聞かなかった。男も何も喋らず、明け方まで小さく燃える焚火を見つめていた。


***


 明け方、僕たちは殺人鬼の住処だという、古い空き家に忍び込んだ。

 この時間に奴が戻って来るという男の予想が本当に当たるのかと疑っていたけれど、殺人鬼は本当に帰ってきた。

 人間たちの間で殺人鬼と呼ばれていようが、僕にとってはただの弱い男に過ぎない。

 刃物を持って向かってきた殺人鬼を床に叩き伏せて、四肢の骨を折り、さっさと心臓を取り出そうとしたところで、ずっと傍らに立って、見守っていた男が僕を止めた。


「待ってくれないか」


 まだ何か納得いかないのだろうか。


「なに? 腕も足も切り落とす? 頭を潰す? 心臓以外ならいくらでも傷つけるけど」


 復讐心にかられた人間というのは、恐ろしいことを言い出す時がある。

 かつて復讐のために僕を呼び出した人間たちは、憎い相手が僕に痛めつけられるのを見て、それは楽しそうに笑っていた。

 心臓を食べるだけの僕たちのほうがよっぽどまともなんじゃないかと思うことさえあった。


「わたしの手で、奴の息の根を止めたい」


 男は懐からナイフを取り出し、僕の目を真っすぐ見据えて言った。


「これはわたしの復讐だ。私の手で終わらせたい」


 奇妙なことを言う男だと思った。悪魔の力を借りる人間は、自分の手を汚さず、悪魔にすべてやらせて自分は甘い汁を吸うだけの奴らばかりだと思っていたし、実際、僕のかつての主たちはそうだった。

 しかし、今、僕が従うのはこの男だ。


「心臓だけはとっておいてよ」


 僕は念を押して、横たわって呻くばかりになった殺人鬼から離れた。

 男はナイフをしっかり握りしめ、殺人鬼の上にまたがった。


「死んでもなお、苦しみ続けろ」


 男は吐き捨てると、ナイフで殺人鬼の首を切り裂いた。一度のみならず、二度、三度。

 声にならない悲鳴が聞こえたかと思うと、かすかな呼吸の音に変わり、やがて何も聞こえなくなった。

 男はしばらく、肩で息をしながら、自分の手で殺した憎い相手を見下ろしていた。返り血が少し服や顔に飛んでいた。


「……気はすんだ?」


 どうも放心状態になっていたようで、僕が声をかけると、男ははっとしたように顔をあげた。


「終わったなら、そこ、どいて」

「ああ、すまない」


 男はふらふらと死体から離れた。僕は死体の傍らに座り、手を死体の胸に突き刺した。

 心臓を掴みだし、口に入れた。美味しい。何人も殺した非道な人間だろうが、何人も救った聖人だろうが、心臓の味は変わらない。

 甘い香りと味が口の中を満たす。この一瞬のために、悪魔は生きている。

 食べ終わり、血のついた指をなめながら、僕は男の方を見た。

男は、復讐を果たしたら自分の心臓も渡すと言った。今の光景を見て、怖気づいただろうか?


「……約束だったね。復讐が果たされたら、私の心臓を君に渡すと」


 男の意思は、変わっていないらしかった。


「そうだね」

「心臓は渡す。だがもう少し、わたしに時間をくれないか」


 まだ何かやり残したことがあるのだろうか。それとも、悪魔を従えて新たな欲望に目覚めたのだろうか。

 男と僕の間の「鎖」はまだ繋がったままだ。僕は男の命令には逆らえない。


「何?」

「死に場所を、選ばせて欲しい」

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