12章 決着
そして数日後、包帯を巻く必要がなくなるほどまで腹の傷は回復した。
ざっくり斬られた跡は消えないままだが、大した問題ではない。他にも、体のあちこちに古傷が残っている。今さら一つ増えたところで気にはならない。
アンジェネの僕への態度も、すっかり元に戻りつつあった。僕の怪我を気遣ってか普段よりも何かと世話を焼かれたけれど、それはどうにも落ち着かない。普段通りに接してもらう方がましだ。
体が本調子に戻らないうちに、また化け物が来たらどうしようかとも思ったが、運が良いことに、しばらく奴が現れることもなかった。
奴がまた迫ってきていると知ったのは、夜中、外套を羽織ってランプを持ったアンジェネと鉢合わせになった時だった。
「どこへ行くの」
「あ……えっと……」
アンジェネはばつが悪そうに視線を下に落とし、足をもぞもぞと動かした。自分のしようとしていることが僕にばれているのが分かったのだろう。
「これ以上、エルを危険な目に遭わせたくないわ。これからはわたし一人で行く」
まあ、そんなところだろうと思った。
「今さら遅いよ。君を一人で行かせたら、僕が悪いことをしてるみたいになるじゃないか」
僕が怪我をしたことに、アンジェネの落ち度はない。
それに、あんな化け物にこのままやられっ放しでは気分が悪い。
「上着を取って来るから待ってて。今日で、あいつと会うのは最後にしよう」
「最後……?」
首を傾げるアンジェネに、僕はきっぱりと言った。
「あいつを殺す」
***
「ねえエル、本気なの……?」
森の中、僕の隣を歩くアンジェネの顔は不安げだ。
「君だっていつまでもこんなことを繰り返すのは嫌だろ? 僕は嫌だよ」
「それは、そうだけど……」
あの化け物は得体こそ知れないが、アンジェネの魔法で腕を切り落とされた時の苦しみようを見るに、痛みを感じてはいる。
顔はないが、声の調子や動きから、怒りや恐怖を感じることもできているように思える。
あれは決して無機質なものではない。獣でも悪魔でもないが、生き物であることは確かだ。
生き物であるなら、死ねば二度と蘇ることはない。
そこに望みをかけて、立ち向かうしかない。
森の奥、僕たちが化け物と相まみえた場所は、木々が散乱し、これまでの戦いを物語っている。
だが、その戦いも今日で終わりだ。
周りの空気が張り詰めていくのを感じる。奴がもうすぐそこまで来ている。
のろのろと体を引きずって現れた化け物の腕は、一本しかなかった。一度ちぎれた部分を元に戻す力は奴にはないらしい。
アンジェネの言うことが正しいなら、この化け物の狙いは彼女らしいが、こんな体になってまで彼女に執着する理由は何なのだろう?
いや、余計なことを考えても無駄だ。
巨大な化け物だが、死に至るほどの傷を負わせればきっとその命は尽きる。希望が見えてきた。
僕は杖を取り出し、一歩前に進み出た。
「アンジェネ、命令を」
一瞬間をおいて、アンジェネの声が聞こえた。
「エル、あれを、やっつけて」
もしかしたら嫌だと言われるかもしれないと思ったが、彼女も覚悟を決めてくれたらしい。
「よし、奴に光を当て続けて。強すぎるのは駄目だ。動きを鈍らせる程度に」
「わかったわ」
アンジェネも前に出て、ランプを掲げた。
化け物が低く唸った。奴の注意をアンジェネから逸らすため、僕は化け物の横へ周り、杖を振って魔力の球を作って奴の体へぶつけた。
「お前の相手は僕だ! この間抜け!」
化け物がのそりと僕の方へ体を向けた。奴は力こそ強いものの、知性は低い。こちらの挑発にのせれば動きを制御できる。
化け物の太い腕が僕に向かって振り下ろされる。さっと脇に飛びのいて避ける。二度、三度とそれを繰り返す。
もしも腕の一撃が当たってしまったら体制が崩れてしまう。幸い、注意さえしていれば僕なら避けられる攻撃だ。
僕も魔法を使えば、もう一本の腕を切り落とすこともできるが、それはしない。深く傷つけ過ぎて逃げられる訳にはいかない。
化け物が吠えた。ちょこまかと動き回る僕にいら立っているようだ。おまけに、アンジェネの魔法の光をずっと浴び続けているせいもある。
奴の動きが鈍り始めているのが分かった。ただでさえ、腕を既に一本失っているのだからそれなりに弱っているはずだ。
そろそろ頃合いだ。うまくいけばこれで勝負が決まる。
「さあ来いよ、まだやれるだろ?」
僕が呼び掛けると、化け物がまた腕を振り上げた。今度は、脇によけるのではなく、じりじりと後ろに下がって距離をとった。
奴の腕は僕の斜め前だ。姿勢を低くし、身構えた。
「エル!」
アンジェネの声が聞こえる。
「いいからそのままで!」
僕は化け物の腕を見据えたまま答えた。その直後、化け物の腕が目の前に勢いよく下ろされる。
今だ。腕が振り下ろされた時にできるわずかな隙をついて僕は弾みをつけて跳び、奴の黒い体を掴んで上によじ登った。
何が起きたのか分からず、化け物が唸りながら巨体を揺らす。僕は杖を支えにして踏ん張った。ここで落ちれば最初からやり直しだ。次に上手くいく保証はない。
もたもたしている暇はない。
僕は杖を化け物の体に突き立て、ありったけの魔力を杖の先に流し込んだ。
乾いた布を水に浸した時のように、魔力が化け物の体の中に流れ込んでいく。それはとめどなく溢れ、体内を破壊し尽くす。
化け物が激しく暴れた。普通の人間ならとっくに耐え切れず死ぬほどの魔力を注いでいるが、奴はまだこらえている。
僕は荒く息をしながらも、杖を両手でしっかり握り、片膝をつき、それでも集中を切らさなかった。額を汗が伝う。
魔力が奴の体を焼き切るまで、絶対に離れない。奴に反撃する暇を与えてしまったら、僕にもアンジェネにも危険が及ぶ。
化け物の動きがゆっくりになってきた。悲鳴が小さくなっていき、のろのろと上がりかかった腕が、力を失ってどさりと地面に投げ出され――
その体が、動きを完全に止めた。
僕は化け物の体からそっと飛び降り、急いで離れた。心臓がどくどくと早鐘を打っている
「死んでしまったかしら……?」
アンジェネが、僕の隣に来て言った。
「分からない」
もしかしたら気絶しているだけかもしれない、と、もう一度魔力の球を飛ばそうかと思ったその時、化け物の体が、空気が抜けたかのように潰れていき、どろどろに崩れて、そのまま跡形もなく消えてしまった。
もう、こいつが一体何なのか、確かめる術はない。けれど、それでいい。
奴は死んだ。終わったんだ。
「……死んだね」
魔力をそれなりに使ったせいで疲れはあるものの、僕の体は高揚感に包まれていた。
勝ったんだ。化け物に。アンジェネに奴と真向から戦う意志がなかったとはいえ、最初から、追い返すのではなく殺す気で立ち向かえば良かった。
勝利の悦びに浸っていると、隣でどさっと音がした。アンジェネがその場に座り込み、呆然と、先ほどまで化け物がいた場所を見つめていた。
「どうしたの?」
「……終わったって思ったら、腰が抜けてしまったみたい」
「ええ? ちょっと、大丈夫?」
アンジェネは申し訳なさそうにもじもじしている。
「少ししたら、立って歩けると思うのだけれど……」
「少しってどのくらい?」
「分からない……」
僕は小さくため息をつくと、手に握っていた杖を消し、アンジェネの横に転がっていた彼女のランプを拾った。今のランプは、淡い光が灯っているだけだ。
「これ、借りるよ」
ランプを自分の腰の少し前あたりにくくりつけ、僕はアンジェネに背を向けてしゃがんだ。
「掴まって」
僕の体力にはまだ余裕がある。アンジェネが立ち上がれるようになるのを待つより、運んで帰った方が幾分もましだ。
「え、で、でも……」
「こんなところにいつまでもいたくないんだけど」
「あ……そ、そうよね」
アンジェネの両手が僕の肩にまわされたことを確認し、彼女を背負って立ち上がった。
「重くない?」
アンジェネが不安げに尋ねてくる。
「全然」
別にお世辞でも何でもなく、むしろこんなに軽いものなのかと少し驚いた。
「落ちないでよ」
僕はアンジェネに声をかけ、来た道を戻り始めた。
***
「エル……ありがとう」
アンジェネを背負って森の中を進んでいたら、彼女が囁くような声で話しかけてきた。
「別に。僕が早く帰りたいだけだから」
「今、運んでもらってることもだけれど……一緒に戦ってくれて、ありがとう」
「……それだって、僕がもうあいつに会いたくないからってだけ」
アンジェネのためを思って、というのとは違う。僕がしていることは、結局は自分のためだ。
「わたし、平気なふりをしていたけど……本当はずっと怖かったの。今まで、ずっと一人で……。何とか追い返すのが精一杯だった。エルが助けてくれなかったら、わたしはずっと戦わないといけなかったわ」
「君の力なら、あいつを倒すくらいできたんじゃない?」
「いいえ無理。力があっても、戦う勇気がなかった。でも、エルにはあった。戦ってるエル、とても素敵だったわ」
アンジェネは今まで何度、あの化け物を相手にしてきたのだろう。
このことを知っているのは、アンジェネと、僕だけ。他には誰もいない。
誰にも話すことができないまま、独りで、何年もあんなものに立ち向かえと言われたら、さすがの僕だって参ってしまうかもしれない。
それをずっと耐え続けてこれたのなら、決して弱くはない。
「……僕だって、君の助けがなかったらきっと駄目だった。勝てたのは、僕ひとりの力じゃないよ」
化け物の腕に斬られた時、アンジェネが代わりに奴と戦ってくれなかったら、傷を治してくれなかったら、こうやってすべてを終わらせることはできなかっただろう。
「そう? ……エルがそう言ってくれるの、嬉しいわ」
「……この前は怒鳴ったりしてごめん。今さら謝っても遅いと思うけど」
ふふ、とアンジェネの笑う声が聞こえた。
「いいの。喧嘩することだってあるわ。それでも仲直りするのが、友達よ」
友達、か。
今回は、不思議と嫌な気分にはならなかった。
背中に、アンジェネの体温を感じる。
温かくて、けれど彼女の体は驚くほど軽くて脆い。
人間の体とは本来そういうものだ。僕のような悪魔とはまるで違う。
膨大な魔力を宿しているはずのアンジェネの体が、とても儚いものに思えてくる。今まで、僕は一体彼女の何に脅えていたのだろう。
今、僕の背に揺られている魔女は、ただの人間の少女だ。
それから黙って歩き続け、屋敷まで帰ってきた。妙なもので、牢獄のように思えていたこの屋敷を見て安心している自分がいた。
「アンジェネ、着いたよ。そろそろ歩けるだろ?」
大人しく僕に背負われていたアンジェネに声をかけたが、返事がない。
「……アンジェネ?」
もう一度呼び掛けてみるが、やはり答えはなかった。
代わりに聞こえてきたのは、静かな寝息。
「やれやれ……」
僕は思わず呟き、大きく溜息をついた。
アンジェネはさっき、自分には勇気がなかった、なんて言っていたけれど、本当にそうなら、悪魔の背中で寝たりなんかしない。絶対に。
***
結局、アンジェネを背負ったまま、彼女の寝室まで運ぶ羽目になってしまった。
彼女の体を寝台の上に下ろしたところで、一瞬目を覚ましかけたが、またすぐに寝入ってしまった。
そのままほったらかしても良かったのだろうけど、何となくそのままにしておけなくて、せっせと上掛けまで被せてしまった。
すっかり灯りの消えたランプを寝台の横の小さな机に置き、僕も少し休むとするか、とアンジェネに背を向けて部屋を出て行こうとしたとき、
「……エル」
彼女の小さな声が聞こえ、僕は振り返った。
起きているのかと思い、もう一度アンジェネのもとに近寄り顔を覗き込んだが、相変わらず彼女は夢の中で、それっきり話すことはなかった。
夢の中でまで、一体僕に何をさせようとしているんだか。
眠るアンジェネの顔は、とても穏やかで――
その顔を見ていたら、彼女の望む「友達」でい続けるのも悪くないと、少しだけ、でも確かに、そう思えてしまった。




