11章 歩み寄り
アンジェネを怒鳴りつけたところで、僕の気持ちはまったくすっきりしなかった。
寝台のうえに仰向けになり天井を見つめ、しばらく目をつぶり、また開ける。
そうしているうちに、少しずつ考える余裕が出てきた。
あんな下等な化け物に傷をつけられたこともいらいらするし、何より、心臓を食べる機会もなく、アンジェネのくだらない遊びに付き合わされる日々にも、間違いなく腹が立っていた。
それなのに、なぜ僕はあの時、アンジェネをかばったんだ?
化け物の一撃をまともに受けていたら、彼女の命はなかっただろう。仮に即死でなかったとしても、数日ともたなかったはずだ。
アンジェネは、「わたしと一緒に戦って」とは言ったが、「わたしを守って」とは命じていない。
つまり、あの時僕が動かなければ、僕とアンジェネの間の契約は、彼女の死によって無効になったのだ。
悪魔の力が及ばず、何らかの理由で主が死んでしまうことだってもちろんある。その時、悪魔に罰が下ることはない。ただその時点で契約は終わり、悪魔は人間の世界を離れるだけだ。
僕は自ら、この生活から、アンジェネから解放される千載一遇の機会を逃してしまった。
そして、その理由が自分で分からない。
自分で自分のことが分からない。
僕は、そのことにいら立っているんだ。化け物に対してでも、アンジェネに対してでもなく、自分自身に腹を立てている。
それが分かったところで、アンジェネに怒りをぶつけてしまった事実は変わらない。八つ当たりだ。どんな顔をして彼女に会えばいいのだろう。
いくらか冷静にはなったものの、気分は晴れないまま、僕は朝を待ち続けた。
***
夜が明け、朝日が昇り、太陽の位置が高くなっても、アンジェネは僕のところにはやって来なかった。
一体何をしているのだろう?
もしかしたら彼女を怒らせてしまったかもしれない。だとしたら何をされるか分からない。
それを思うと、部屋から出る気になれなかった。
昼を過ぎた頃、部屋の扉を叩く音が聞こえた。きっとアンジェネだ。
出たらどうなるのだろう。扉を開けるか迷っていると、次は少し遠慮がちな音で扉が叩かれた。
扉を破ることぐらいアンジェネなら魔法でたやすくできるだろうにそれをしないということは――きっと怒ってはいないのだろう。
僕は覚悟を決め、扉を開けた。
そこに立っていたのは、やはりアンジェネだった。両手におさまる程の、蓋がついた木の箱を持っている。
いつもなら明るく振る舞うのに、今は叱られた小さな子供のようにしょんぼりとしている。
アンジェネは僕の顔をちらりと見上げ、何も言わず目を伏せ、それからもう一度僕を見て、持っていた箱を差し出した。
「あの……これ」
今にも消え入りそうな声だ。どうやらこの箱を僕に渡したいらしい。
「これは……」
僕は箱を受け取り、おずおずと蓋を開けた。そこに入っていたものを見て、僕は目を疑った。
心臓が、ふたつ。
小さいものだったが、それは確かに心臓だった。久しぶりに見た、ずっと欲しかったもの。
僕はアンジェネが見ているのも構わず、心臓を一つ掴んで口に放り込んだ。
咀嚼し、舌の上で転がしたところで、あることに気づいた。
――違う。
この心臓は人間のものじゃない。
獣の臭いが鼻を抜けていく。これは獣の心臓だ。食べられないことはないが、人間のそれより味はかなり劣る。
普段なら、匂いで見分けられたはずだが、久々の心臓ということもあり我を忘れてしまったせいで気づけなかった。
アンジェネは、僕の様子をじっとうかがっている。僕は獣の心臓を何とか飲みこんだ。
「……これ、人間の心臓じゃないね?」
僕が言うと、アンジェネの体が少しばかり縮こまった。
「これでは……駄目なの?」
「すごく不味い」
「ごめんなさい……」
アンジェネが声を絞り出した。
「わたし、自分のやりたいことばかり貴方に押し付けていたわ。初めての友達で、嬉しくて……でも本当の友達なら、そんなことしてはいけないの。今まで気づけなかった。
エルは心臓が好きだと聞いていたから、喜んでもらえたらと思ったの……だけど、人間の、心臓は、用意できないわ。ごめんなさい」
ほぼ涙声だった。きつく握られた拳が、かすかに震えている。
アンジェネが朝から姿を見せなかったのは、獣の心臓を用意するためだったのだ。
僕のために、僕に喜んでもらうために。
馬鹿げた話だ。彼女は僕の主で、強い力を持った魔女、僕を力でねじ伏せることだって簡単なはずなのに。
どうして、僕の目の前にいるこの人間は、あくまでも僕と対等であろうとするのだろう。
それが友達、というものなのだろうか。
こんなにも沈んだアンジェネの姿を見るのは初めてだ。僕といる時は、いつも楽しそうに笑っていたのに。
昨日、僕が声を荒げてしまったのは、アンジェネのせいではない。
それなのに、全て自分のせいだと思い込んでいる彼女を見ていると、なぜか胸の奥が痛むような、苦しいような気持ちになる。
僕は箱の中にある、もう一つの獣の心臓を掴んで口に押し込んだ。何度か咀嚼し、飲み下す。
「エル……?」
不味いと言ったものを自分から食べる僕の行動に戸惑っているのか、アンジェネが僕の顔をおそるおそる覗き込む。
「……うぇ。やっぱり不味い」
僕は溜息混じりに言った。
「こんなもの食べさせられるくらいなら、あれの方がよっぽどましだよ。何だっけ、君が作る……クッキー」
アンジェネの表情が一転、驚きに変わり、それからみるみる内に、いつもの笑顔が戻ってきた。
「本当!? じゃあ、早速作るわね!」
くるりと踵を返し、跳ねるように駆けていく。
その後ろ姿を見送りながら、僕はほっと安堵の息をついた。
その感情が、僕の身に何事も起きなかったことによるものなのか、彼女に笑顔が戻ったことによるものなのか――
自分の気持ちは、まだ分からないままだ。




