10章 壊れた感情
それからまた日が経ち、僕とアンジェネはまた、夜の森の中、悪夢のような化け物と対峙していた。
アンジェネが持つランプから放たれる光を浴びて、化け物が苦し気にのたうつ。
化け物の注意をこちらに向けるため、僕は杖で魔法の球を作り、奴の黒い体にぶつけた。
それに怒った化け物が唸り声をあげ、不気味な腕を伸ばして僕に掴みかかって来る。慣れれば避けるのは難しくない。
迫りくる腕をひらひらとかわしながら、僕はアンジェネの様子をうかがった。
彼女は化け物から距離をとり、ランプを掲げている。
このまま僕が囮になり続けていれば、あまり時間を長くかけずに化け物は去っていくだろう。
不本意ではあるが、もう少し我慢するしかない。
化け物が咆哮した。僕に攻撃が当たらないことにいら立っているようだ。腕を乱暴に上下に振り、地面をあちこち叩き始めた。
あれに当たれば無傷ではいられない。
「アンジェネ! 気を付けて!」
声を張り上げ、アンジェネに呼び掛けたその瞬間、視界がぐるりと逆さまになった。帽子が頭から離れ、地面に落ちた。
何かに片方の足首を掴まれ、宙に持ち上げられていた。化け物の腕だ。地面を叩いていた方とは逆の腕に捕まってしまった。
「エル!」
怯えた顔で僕を見上げるアンジェネと目があったと思ったら、体がひゅん、と風を切り、鈍い痛みが全身を駆け巡った。
「はっ……!」
掠れた声が口から漏れた。地面に勢いよく叩きつけられた僕の体が再び持ち上げられる。
「やめなさい! エルを放して!」
アンジェネが叫び、ランプの光を強めた。光が太い線となり、化け物の体に突き刺さる。
光線を受けた化け物は耳をつんざくような悲鳴をあげ、掴んでいた僕の足首を放した。
咄嗟に受け身をとり、地面に着地する。先ほど体を地面に思い切り打ち付けられたせいか少々ふらつくが、それ以外は何ともない。
だが、今のアンジェネの反撃のせいで、化け物の怒りの矛先が彼女に向いてしまった。
奴が腕を振り上げた。それをまた振り下ろしてくるのかと思ったら、腕の先がぐにゃりと変形し、刃のようになった。
それが意味することを悟った瞬間、僕は放たれた矢のように駆け、アンジェネの前に飛び出した。
杖で刃を弾くには遅かった。盾になったのは僕の体だ。
焼けるような痛みが腹を焦がし、生温かいものが広がっていく嫌な感覚がする。
「ぐっ……」
「エル! 大丈夫!?」
耐えきれず腹をおさえてうずくまった僕に、アンジェネが呼び掛ける。
僕の体から滴る黒い血を目の当たりにした彼女が、はっと息を飲んだ。
「なんてこと……!」
化け物が唸り声をあげた。アンジェネが奴を睨みつけ、一歩、また一歩と歩みを進める。
「……許さないわ」
風が急に強くなった。周りの木が風を受けて激しくしなり、何枚もの葉が宙を舞う。
自分を囲む空気が変わったことに化け物も気づいたらしい。攻撃をしてこず、腕を宙に泳がせて戸惑っているような素振りをみせた。
その隙に、アンジェネがランプから光を放った。光は化け物の体ではなく、宙に向かっていき、一か所に集まって何かの形を成し始めた。
剣だ。光でできた剣は、ひとりでに高速で動き、うろたえる化け物の、腕の一本を切り落とした。
化け物が喚き叫び、激しく暴れる。追い打ちをかけるように、アンジェネがランプの強い光を奴に浴びせかけた。
「去りなさい! 今すぐ!」
堪りかねた化け物が、苦し気な声を上げながら一本だけになった腕で這い、森の奥へ逃げていく。
やがて風がやみ、静寂が訪れた。
「エル、傷を見せて」
アンジェネが、しゃがみ込んだままの僕の傍らに膝をつき、僕の腹を覗き込んだ。
「……死にはしないよ」
腹に当てていた手を見ると、黒い血がべったりとついていた。化け物の腕に、ざっくりと斬られたらしい。
深手だが、致命傷とまではいかない。
「血が止まらないわ。傷を塞がないと……」
先ほど、化け物に立ち向かった時の毅然とした態度が嘘のように、アンジェネの顔と声に焦りが浮かんでいる。
「無理だ。こんなに深い傷じゃすぐには治せない」
今の僕には、自分の傷を治せるほどの力が残っていないし、そもそも大きすぎる怪我は悪魔の力でも、完全に塞ぐことはできない。
数日大人しくするしかないだろう。
「しばらく休めば治る。悪魔の体は人間とは違う」
「放っておけないわ。じっとしていて、何とかやってみる」
アンジェネの両手が、腹の傷をそっと押さえた。
「いっ……!」
しっかり触られると体に激痛が走る。僕は彼女をきっと睨んだ。
「何をして……」
「大丈夫、わたしを信じて」
そうしている内に、全身の痛みが少しずつ引いてきた。腹の、アンジェネが触れている場所がじんわりと熱を持っている。そのうちに、その熱が全身を包み込んだ。不思議と、不快ではなかった。温められた湯に全身が浸かっているみたいだ。
「血、止まったみたい」
しばらくして、アンジェネが僕の体から手を引いた。もう一度、傷に手を伸ばしてみると、確かにそこは塞がっていた。
「まさか……」
これもアンジェネの魔法なのだろうか。
悪魔ですら持っていない、傷を治す力を使いこなす魔女。
呆然としていると、ぽすん、と頭の上に帽子が被せられた。先ほど化け物に捕まった際に落としたものを、アンジェネが拾ってきたらしい。
「立てる? ごめんなさい、血がついているけれどよかったらつかまって」
アンジェネが、僕の黒い血で汚れた手を差し出してくる。
「ああ……、立てる」
彼女が痛みを取り払ったためか、特に何事もなく立ち上がることができた。
「帰りましょう。屋敷でちゃんと手当をするわ」
隣に立ったアンジェネに促されるまま、僕たちはゆっくりと帰路についた。
***
僕は上半身の服を脱がされ、居間の椅子に大人しく座らされていた。
血で汚れた部分はアンジェネが用意した湯で洗われ、何もしないよりはましだと屋敷にあった軟膏を塗られた。ひりひりして痛い。
その上に、アンジェネが包帯を巻いていく。
「これで大丈夫。痛いのは続くかもしれないけれど、少しだけ我慢してね」
僕はアンジェネと目を合わせず、ずっと押し黙っていた。
血を流すほどの大怪我をしたのは久しぶりだったので、少し動揺してしまったけれど、屋敷まで引き返す道を辿りながら段々冷静さを取り戻し、それと同時に悶々としていた。
苛立ち、怒りのような何かが胸の奥で渦を巻いている。しかし、誰に対して? あの化け物相手か、それともアンジェネか。
何にせよ、じっと黙っていないと感情が爆発してしまいそうだ。
「……ごめんなさい」
アンジェネがぽつりと言った。
「わたしのせいだわ。友達をこんなに酷い目に遭わせて……。エル、本当にごめんなさい」
友達。
その言葉を聞いた途端、僕の中でぷつん、と何かが切れた。
「……うるさい」
「エル?」
「腹が立つんだよ。友達、友達って」
アンジェネは、呆然と僕の顔を見ている。
「僕は悪魔なんだ。君と契約した悪魔。それなのに、友達だなんて言って、馴れ馴れしくされて、こっちがどれだけ惨めな気持ちになるか分かる?」
僕の中にため込まれていた感情が、どんどん溢れ出して、語気が強まっていく。
「魔女だかなんだか知らないけれど、君の力は強すぎるんだよ。君がくだらない友達ごっこで遊んでる間も、僕はずっと鎖につながれっ放しなんだ。しかもそれがいつまで続くか分からない。
それなのに対等な相手面なんてされて、僕が喜ぶと思う? 独りよがりなんてやめて、いい加減現実を見たらどうなんだよ!」
「あ……」
アンジェネは、泣きもせず、怒りもせず、何か言いかけては口を閉じ、とうとう黙って俯いてしまった。
「……もういい。一度結んだ契約は、途中で切ることはできないんだ」
アンジェネが僕を従える力を失うか、彼女か僕が何らかの理由で死ぬか、あるいは、彼女が僕に自分の心臓を渡すと宣言するか、それ以外にこの契約を終わらせる手段はない。
契約を結んだ悪魔と人間の間には「鎖」の力がはたらく。悪魔は主の人間を殺すことはできないし、人間の方も悪魔の死を願うことはできない。
もう、後戻りはできない。
僕は椅子から立ち上がり、大股に歩いて部屋を出た。
自分の寝室に戻る間も、戻ってからも、アンジェネが後を追ってくることはなかった。




