9章 悪魔の過去
化け物との戦いから数日。また退屈な日常が戻ってきている。
退屈と恐怖、二つの相反する要素が隣り合う生活、精神がおかしくなっていない自分を褒めてやりたい。
真夜中、ランプの灯りの下、僕は自室のテーブルの上に盤を広げ、木でできた駒をちまちまと並べていた。
白と黒の陣営にそれぞれ別れ、盤上に並んだ駒を交互に動かして相手の駒をとっていく。人間が考えた遊びだ。
一人でやるのではつまらなくて相手になってほしいからと、少し前にアンジェネにルールを叩き込まれた。
面白いとは思わないけれど、暇つぶし程度にはなる。
ぼんやりと駒を動かしているうちに、いろいろと昔のことが思い出されてきた。
過去に思いを馳せることなどほとんどない。基本的に良い思い出がないのだ。
出会った人間、かつての主人たちの顔は覚えていない。記憶にあるのは心臓の甘い味と、醜い人間たちの姿。
ある者は復讐のため、ある者は成り上がりのため、悪魔と契約する道を選んだ。
僕は奴らの命じるままに動き、人を殺め、心臓を喰らってきた。
契約が切れるまでの間は、人間の方が立場が上だ。
たいていの奴らはそのことに気をよくし、僕を獣か奴隷のように扱った。
悪魔が少々痛めつけられたくらいではびくともしない体であることをいいことに、余興や金儲けのための見せ物にされたこともあった。
体に鞭を受け、どこまで気を失わずに耐えられるか、好奇の目に晒されて――思い出しただけで吐き気がする。
「鎖」につながれ、人間に付き従う生活、楽しい訳などない。
悪魔は、契約した人間と立場が入れ替わる時、つまり人間が力を失い、「鎖」が切れる時を今か今かと待ち続ける。
己の力を失い、自分が心臓を食べられる側になった時、奴らは急に態度を変える。
散々、僕に人殺しを命じた奴が、殺さないでくれと泣きついてくる。僕を痛めつけて笑っていた奴が、僕に体を引き裂かれて苦痛に顔を歪ませる。
中には、自分より弱い人間を何人も身代わりとして僕の前に並べ、助かろうなどと考える者もいた。
そんなことは全て無駄だ。いくら代わりのものを差し出してくれたところで、見逃すなんて選択肢を悪魔がとるわけがない。
愚かな生き物に縛られる生活すら耐えようと思えるほど、心臓の味は悪魔の心を、すべてを満たすのだから。
最後に残った黒い駒が退路を塞がれた。白の陣営の勝利だ。
ふと、楽し気に僕にこの遊びを教えるアンジェネの顔が浮かんだ。
もし、「鎖」が切れて、契約が終わる時がきたら、彼女はどんな顔をして、自分の死を受け入れるのだろう。
殺さないでと懇願する、抵抗する、すんなり受け入れる、どのようにするのか、想像できない。
彼女は僕が出会った中で、最も奇妙な人間だ。
悪魔に文字を読むことを、遊びのルールを教えて一体何になる?
何度も僕に話しかけ、自分が食べているものと同じものを勧めてくる。僕を傷つけるような素振りなんて全く見せない。
まるで、僕のことを普通の人間だと思っているみたいに。
だが、どんなに僕を人として扱おうとも、僕の本質は悪魔だ。それはこれからもずっと変わらない。
僕は誰のことも信じない。アンジェネは僕を友達だと言うけれど、僕にとっては所詮は友達「ごっこ」だ。
彼女が傷ついたり、苦しむことがあっても、命令されることがなければ、僕が彼女のために動くことはない。
僕は傍らにある、もう一つの小さめのテーブルの方に手を伸ばした。
テーブルの上には、アンジェネが作ったクッキーがいくつか盛られた皿が乗っている。
僕が夜中、ほとんど眠らずに一人で過ごしていると聞き、なにか摘めるものをと言って彼女に渡されたものだ。
いちいちそんなことしなくてもいいのに。自分で作ったものなら、自分ひとりで食べればいい。
気を紛らわすため、狐色の菓子を口に運ぶ。
先ほどは、こんな生活をしていてもまともでいられている自分を褒めたいと思っていたが、やっぱり、僕はどこかおかしくなっているのかもしれない。
口の中でさく、と音をたてる菓子の味を、ほんの少しだけ、美味しいと思ってしまうのだから。




