序章
悪魔と呼ばれる生き物がいる。
彼らは人間の住む世界とは別の次元に暮らしており、人間の世界にやって来ることはできない。
人間が、彼らを呼ぶ儀式をすることで、悪魔は人の前に姿を現す。
そして、己を呼び出した人間に仕え、どんな命令にも従う。
しかし、悪魔は忠実な生き物ではない。
呼び出した人間が、悪魔を従える力を使い果たす時、彼らはその心臓を抉り出し、貪り喰らう。
悪魔にとって、人間の心臓は、何にも代えがたいほど甘美な味であるという。
悪魔を呼び出す方法は、人間の世界で、表には出ず、だが確かに語り継がれている。
野心のため、復讐のため、儀式を行った人間は、悪魔によってそれを叶える。
心臓という、代償と引き換えに。
***
「待ってくれ! まだだ、まだ終わっていない!」
僕は喚き散らす男の顔を真っすぐに見つめた。
高級な素材でつくられた衣服に身を包んではいるが、それには到底不釣り合いな中年の痩せた男。
顔色は青ざめて、髪はほとんど白くなっている。
初めて会ったのは三年ほど前、その時はもっと太っていて、髪には白いものが混じる程度だった。
僕と共に過ごすうちに、みるみる今の姿になっていったのだ。
僕が無表情のまま、一歩、男の方に踏み出すと、男の顔に恐怖と絶望が広がっていった。
僕の顔から目を放さないまま、男は後ずさっていき、部屋の壁にぶつかったところで、そのまま床に崩れ落ちた。
「君は僕に色々なことを望んだね。僕はそれをすべて叶えたよ。その結果が、ここにあるもの全部だ」
僕は淡々と言いながら、周りをぐるりと見渡した。部屋の中は金や宝石、絹でつくられた豪華な調度品で溢れている。
「君の命令で殺してきた命が、こんな悪趣味なものに変わったんだ。そうだろう? ああ、もちろん君を責めないよ。僕はどれだけ自分の手で命を奪っても何とも思わないからね。たくさんの心臓を食べさせてもらったから」
また一歩、男のほうに歩みを進める。男は口をぱくぱくさせていたが、やがて声を絞り出した。
「まだ、足りない……」
その言葉に、無表情を貫いていた僕は吹き出した。
「笑わせてくれるね。人間はつくづく欲深い。僕らが心臓を食べたがるのと、そんなに変わらないじゃないか」
今度は笑顔を浮かべながら、早足で進み、男のすぐ目の前に立った。
男は震えながら、僕を見上げる。
さて、問答はそろそろ終わりだ。
この男にはもう、僕を従える力は残っていない。
権力を求めた男は、今や死を目の前にした哀れな僕の獲物。
左手で、男の首を絞めた。男の目が見開かれ、かすかなうめき声が漏れる。
さて、この男の名前はなんだったか。いや、そんなことはどうでもいい。
彼はもう僕の主人ではないのだから。
「君、結構もった方だよ」
僕は笑顔のまま囁くと、右手を男の胸に突き刺した。




