『Flores et flamma』
「はあ……、はあ…っ………」
灼熱が身体から水分を奪う、渇きが呼吸を痛ませる。
疲労が身体を重くさせ、視界を霞ませる。
女、ペールアは混濁していた。
意識と無意識の境目へ、
意思と失神の海原へ。
焔の悪意が彼女の身を焦がす。
植え付けられた黒は彼女の心臓を酷使し業火の片鱗を噴き出させている。
「はあ……はあ………」
ペールアは胸が疼くのが酷く不快に思えた。
早く…早く……此の胸の苦痛を抑えたい。
然し、きっと、そんな事なんか叶わないのだと、何処かでは分かっていた。
ーーこんな状態ではきっと戦う事すら儘ならないだろう。
万全では無いのだから、遭遇してしまえば必ず敗北する。
もしも復讐者になんか遭遇してしまったのなら…因縁故に殺したくなる程憎いと思っていても、大敗を喫するだけ。
「嫌だ………嫌だ………こんな事で死にたくなんか…ない……………」ペールアは心を吐き出した。敵と相討つのならばまだ良い。なのに其れすら叶わずに死ぬのは、嫌だ。
…ペールアはよろめき、壁や柱に身を寄せながら一歩、また一歩と進む。
ーー復讐者が攻めてきた事は知っている。
だから苦しくても、彼女は戦いたい。
大切な女神を守る為に。
例え彼女の様な寵愛を受けられなかったとしても。
「っぐ………ぐうっ……ぐっ…」
力がはいらない。身体中から力が抜けてゆく。何も考えたくない。苦しい。熱い。焼ける、焼けてゆく。
「はや…早く……行かなく…ちゃ……………」
精一杯の力で立ち上がった。
「今は…出来るなら……誰かに…遭ってしまうのは…不利…に、」
戦わなきゃ、駄目だ、でも何とかしなきゃ、きっと負ける、だけど復讐者を………
ーー視界が霞み、ぼやける状態とを繰り返した彼女の前に、現れた滑らかで艶やかな黒。
「………はっ!!?」
棚引く黒髪。瞳の光彩は空の反映、或いは透明な心の果て。
凛とした和装に近い礼装、白銀の刀剣。
驚く程に清純な白。
華と炎が邂逅した。
ーー完全なる聖女レミエ。
さる星都の一件から本来の力と魂を思い出し、或るべき形を成した者。どうやら復讐者の一行として既に廷内に侵入していた様だ。
容姿は兎も角、実力については未知数だ。
果たして、弱りきった自分が勝てるとは到底思えない。
…然し、復讐者の一行なら、邪魔をするのならば、話は違う。彼女も殺さなくてはならない。不可能だったとしても、致命傷を負わせねばならない。
「…はあ、はあ………、くっ…」
ペールアは武器を持ち、構えた。質量のある物質を持つのは矢張り無理がある。武器を持つ手の力が弱まる。だけど、彼女は立った。
「……………ろす、殺……さなきゃ…」
「……………………」鬼気迫るペールアの様子に戸惑いを隠し切れないが、レミエは彼女の強い意思、復讐者に関わる者全てに対する大きな殺害欲求に改めて警戒を強めた。目の前の追従者がどういう経緯かはさておき手負いの状態ではあるが、厄介な存在であるのは変わらない。
ーー彼女の双眸には、目の前の追従者の身から放つ黒く禍々しい気が視えていた。
(あれは………?)レミエは少しざわつく。良からぬものかもしれない、と感じてはいるが、彼女は白銀の刀剣を下ろさない。
敵が仕掛ける前に、自ら勇み進む。
「桜瞬脚!!」桜の花が散る。彼女の足元に優しい桜色が溢れる。レミエの速度が格段に速まり、ペールアに素早く近付いた。
「はああっ!!!」刀剣を振り下ろす。当然だがペールアが己の武器で受け止めた。
金属音と振動が、ペールアの身体に負荷を掛ける。
「ぐぅうっ……………」ギリッ、と歯を食いしばった。汗が頬を伝う。洗練された白銀の刀剣が放った初めの一撃は重い。
「っくう!!!!!」ギィン!と金属が強く弾かれる音。
鍔迫り合った己の武器を力一杯に振り上げてレミエと距離を取る。
(弱っているのにあんな力が…!!)レミエはまた驚く。衰弱していながら自分の初撃に対抗した。
追従者の力量を少し見誤っていた気がする。
「はあ、はあ………っ、はあああっ!!!!!」今度はペールアがレミエに向かって走り寄る。己の武器を力強く、大きく、振り下ろす。
「くっ!」レミエは容易に受け止め、そしてペールアの一撃を受け流す。
刀剣すら断ち切ろうと振り下ろされた彼女の力は、即座に傾けられた刀剣を滑る様に下り、そして地面を穿った。
「あ……そんなっ…」ペールアははっと見開き、そして悔しそうにレミエを睨み付けた。
彼女の身体はバランスを保てずに、其の場に崩折れる。座り込んだペールアの目の前に、レミエは刀剣を突き付ける。
「潔く敗北を認めて下さいますか」
レミエの声は強く、凛々しかった。
「……………」ペールアは心底悔しそうに、黒い瞳をレミエに向ける。だがもう彼女は戦う力の大半を失っていた。もう、戦えない。
「…なら、殺してしまえば良い。貴女達にとって追従者は、敵なのだから」
追従者としての誇り。潔く敗北を認めるよりも、勝者に殺される方が良い。敗者は惨めだ。
「……………………。」
レミエは静かに口元を吊り上げ、微笑む。彼女は静かに口を開いた。
「そうですね。惨めな敗者となるよりも、殺された方が良いでしょう」
ペールアへ向けて武器を大きく振り上げる。
「陽聖天、」
白銀に強力な輝きが収束する。
ーーペールアは己の虚勢を後悔した。"死にたくない"、と強く目を閉じた。
ーー………っ、
ペールアは恐れ、ゆっくりと目を開いた。…何も起きていない。自分の身が無事である事に気付く。
(生きて、いる………?)彼女は顔を見上げる。自身の頭へ向けて振り下ろされた筈の武器が逸れている。
「……………!!」
「…弱っている方を手に掛ける真似はしませんよ」
彼女にだって、彼女なりの矜持がある。弱者を手に掛ける程残酷では無かった。
「貴女の女神の様にはなりたくはありませんもの」一切の躊躇いも無かったのに、其れでも彼女は殺さなかった。
「此の先、通して下さいますか?私、急いでいるんです」
そう言ってレミエは武器を鞘に収め、静かにペールアの横を通り過ぎ去っていった。
…………………………。
独り其の場に取り残されたペールアは茫然と座り込んだ儘で居る。敗北を喫した。なのに殺されなかった。
…彼女の誇りが、あっさりと打ち砕かれた。死して女神の為となろうと望んでも、生き延びてしまった。
だが、死にたくない、と強く思ったのは本当だった。
だから生き延びた。惨めだ。死に損なった故の惨めさが、彼女の憎しみを強くする。
彼女に植え付けられた憎しみが、追従者として得た傲慢な誇りを穢されたと吼えている。
ーー大回廊を越えて、レミエは歩みながら先程の事を思い返す。
(衰弱しているのに…強かった。殆ど力を出せていないのに、万全である私に抗った……)
彼女の胆力に、改めて感心する。
……其れでも。
(あの黒い靄…みたいな気………、絶対危険なものだわ。何か嫌に感じてしまう…)
此の胸騒ぎが現実になりません様に、と彼女は静かに祈った。




