『Semina cladis』
カツーン…カツーン……と回廊中に響き渡る足音。
日も沈み月と星が夜を駆ける空の下、薄暗く月明かりだけが頼りとなっている広く冷たい回廊を、たった一人が歩いている。
紅の髪を三つ編みに束ねて揺らす、紅蓮の魔女の異名を持った者。
シーフォーンの追従者の一人にして、
そして強力な力を持った一人。
彼女の名前はペールア。
異名の通りの強さと年齢不詳の見目麗しい容姿、そして思いの外気さくな性格から女神や他の追従者達はおろか、狂信的な女神の民草達からも愛されている人だった。
其の表情は何時もの様な穏やかな表情であり、抱えている本はどうやら彼女の好きなものなのだろう、虫ーー主に蛾が描かれている、図鑑の様なものだろうか。
「ふふ…」思わず笑みを溢したペールアの、やや太めな眉が僅かに下がる。
「蛾ちゃんはやっぱり可愛いなぁ〜…あっでも■■■■たんと比べる事は……やっぱり出来無いっ!!」
くぅ〜っ、と一人悩ましげに振る舞っている。
ーーそんな彼女の目の前、月明かりの差し込まぬ回廊の柱の影の中に、一つの人影が現れている。
「………!!!」ペールアはハッと気付くや、さっと素早く身構えて柱の影に浮かぶ人物を見た。
『…おや、酷いじゃないか。君達をそういう姿にしてあげたと云うのに』
ククッ、と笑みを漏らす影の声は、青年の様だ。
一歩も動かずにペールアの前に立っている。
「あ…あなた何ですか……そういう姿って、分からないんですけど…!」
ペールアは警戒を深めながら答える。
『まあそう警戒しないでおくれよ。君が知らないのも当然さ。僕を知るのは女神ーー特にシーフォーンだけだからね』
「シ…フォさん、だけ?」
『嗚呼そうだよ。彼女が僕に願ったから、今があるのさ』
青年はペールアの知らない出来事をさらりと話した。
「…全く、分からない…あの人が願った?願って、こんなにも素敵な世界を?」
警戒を解かないが、ペールアは動揺している。
『動揺するのも当然だろうね。君は事情をよく知っている訳では無いのだから。…でも君も同じだよ?彼女達は罪を犯したのさ』
青年はペールアの動揺から生まれた心の隙間を空かさず付け込んでゆく。
『初めから女神は運命の女だった訳じゃ無い。彼女達は確かに選ばれたが、手に取ったのは災いだ』
「な…何を……言って…」
『君も選ばれたが、然し其れは君も罪の片棒を背負ったと云う証左。偽ろうとも真実は偽れない』
「な…」
『でも良いだろう?今こうして君は絶対の幸せを謳歌しているのだから。女神の懇願あってこそさ』
『君は選ばれたのさ。共に犯した大罪を背負う為の共犯者に』
「……はあああ!?なっ、何をっ、言って、言ってるんですか!!共犯者!?馬鹿馬鹿しい、ーーそう思うのは勝手ですけどああもういいや!そうしてしまえば!!」
動揺の上に沢山の事を一気に聞かされたペールアは、酷く戸惑いそしてヤケになっていた。
『…ふふっ、良いんだ?そっかそっか。……じゃあさ、ちょっと』
影の中から一歩も動かず留まっていただけであった青年が、ふわり、と地を蹴って素早くペールアに向かう。
『ーー僕の目的の為に使われてくれよ』
「!?」
トン…とペールアの身体を軽々しく押した青年が何かを取り出し、そしてペールアに其れを植え付けようと、取り出した刃物でペールアの胸を切り裂いた。
「っ……!!!」
鎧を着ていなかった事が災いしたらしい。思わぬ形で胸を切り裂かれたペールアは苦痛こそ感じても、悲鳴も上げる事すら出来ずに目を見開いて一連の流れを見ていた。
(不味い…やられた……!!)
ペールアは黙って、青年の行動を見るしか無かった。切り裂かれた胸の傷に黒く禍々しい何かを植え付けられてしまう様子を、ただ静かに。
そしてペールアがほんの一瞬だけ月明かりに照らされた青年の姿を見ると、明らかに見覚えのある人物の顔が僅かに映った。
ーー!!
ペールアはほんの一瞬だけの光景ながら、其れは強く脳裏に焼き付く。
『…ふふ、どういう風に芽生え、そしてどんな影響が出るのかが楽しみで仕方が無いよ』
へたり込むペールアを前に青年が嗤うと、フッと一瞬で消えてしまう。
まるで一夜の幻影の如く、青年の姿は回廊の何処からも感じられなくなっていた。
"青年"が何者なのかさえ分かる事は無かった。
然し、女神シーフォーンと彼には繋がりがあり、そして女神や追従者の誕生と今の世界になった理由に関係がある事だけは確からしい。
「…あれ、は」
ペールアが呆然とする中、大きな鼓動と共に突然彼女の身体全体に激しい痛みが何重にも駆け抜ける。
ーードクンッ!!!!!!!!!
鋭利な棘が、強い電流が、あらゆる苦痛が彼女の身体を蝕んだ。
「〜っぎゃあああああああああああっ!!!!!!!」
彼女の悲鳴が回廊中に響き渡り木霊する。然し不思議な事に誰も其の様子に気が付かない。…女神シーフォーンですら、ペールアの悲鳴に気付かない。
「ああ、ああ…あああああ、ぅあ、あ、痛゛い゛、っ、たす、助けて!!痛っ…ぎゃあっ!!!」
鉄の処女の拷問にも、磔刑にも、八つ裂きにも勝る苦痛。
身体的な苦痛の他に、彼女の精神を辱めた。
…暫く苦痛が彼女を苛んだ後、彼女の全身を駆け巡り苦しめていた痛みは急に消え、ペールアは落ち着きを取り戻した。
激しい痛みにのたうち回っていたペールアは其の場で大の字になって荒く呼吸をする。
(…何だったんだろう……あれは…あれは……………)
痛みによる脂汗が酷い。
此の痛みが植え付けられた"何か"によるものだったのか、今は考えたくもない。
此の儘意識を手放す訳にはいかないし、回廊で寝ていればきっと風邪を引いてしまう。
ふらつきながらもペールアは立ち上がり、落としてしまった図鑑を拾い上げよろめきながらも自室へ向かって行く。
ーーペールアの中で脈を打つ黒い塊。
彼女は気付かない。
……植え付けられたものが、何れ彼女にもたらす影響を、彼女自身が知る事となるのは女神殺しから間も無く後の話の事である。




