『Puella ーdolorー』
「………あたし、アンクォアの事は大好きだよ」
少女が静かに語る。
「女神としてのアンクォアも嫌いじゃない。でも、この頃…おかしいんだよね。アンクォア…昔はまだあんなんじゃ無かったのに」
少女の表情は何時に無く落ち込んでいた。眉尻を下げて、其の菫の瞳を伏せがちにする。
「昔のアンクォアはさ、本当に凄かった。大勢の抵抗軍を相手に一人でいっぱい戦って、他の女神達の為に道を開いた。戦争が終わってからも凄かったよ、フィリゼンを襲う盗賊とか悪い連中に一人で立ち向かって皆を守ってくれていた」
「それが……少しずつおかしくなって、それで最近特に酷くなった気がする。…本当は復讐者が悪いとまでは、あたしは思っていないんだ。でも、昔の優しいアンクォアに戻って欲しいなって」
少女は胸中をただ只管吐露し続けた。
「……………………。」
「…あっ、ご、ごめん!!あたし喋り過ぎた!?しょ、正直良い気持ちじゃ無いよね、幾らあたしを助けてくれたり見逃してくれたとは言え女神が許せないん…でしょ?」
静かに聞いていたレミエにはっとした少女は、慌てて取り繕う。
「…良いですよ。気にしないで下さい。私自身元々はただの修道女、人々の悩みに寄り添い聞いてあげる事が主ですからね」
レミエは少女へ、宥める様な優しい声で穏やかに答える。
「でっでもっ…!」
「確かに、仰る通り女神の行いは許せませんし其れに付き従う追従者の方々にも、あまり良い印象は抱けません。ですが、一人の人を見捨てたりはしたくないのです。……私の勝手な意見かもしれません。でも、貴女はずっと誰かに其の事を打ち明けたかったのではありませんか?」
「!!」少女の顔が強張った。…と、同時に酷く複雑な心境になった。安堵の様な、何故か屈辱の様なーー
隣で微笑む修道女に、自分の心は看破されている。屈辱は、きっとあたしの傲慢だ。
「なんで…それを……」
「だって、私も嘗て同じでしたから。打ち解けられる方に出会うまで、私もそうして悩みあぐね続けていたものです…」
何と単純な答えだった事だろうか。そして其の答えは此の修道女を通して復讐者達の行いと女神の行いに疑問を抱かせる切っ掛けになった。
少女が抱いていた謎。
慕っていた女神がおかしくなってしまってから日に日に増していった、女神達への疑い。
…一つの確信と疑問が、少女の視界を明るく開こうとしている。
「……くっ、はあっ!!」
ディーシャーの氷剣が素早く動くエムオルを捉えようとする。然しエムオルはいとも容易く飛び跳ねて氷剣の攻撃から逃れる。
(何て素早い……)攻撃の手を早めても其れを上回る速度で躱してゆくエムオルに苦戦する。ツブ族の健脚を侮っていたらしい。ディーシャーは静かにだが、次第に苛立ちを募らせてゆく。
「えいっ」
「うあっ!!」
そのまま素早く背後を取ったエムオルの重い一撃がディーシャーの背中を強く打つ。壁に吹き飛ばされた彼女の身体から骨が折れる音がミシリと響いた。
ーーだが、追従者たる者そんな所で屈する筈は全く無い。ほんの僅かな瞬間に氷で盾を生成していた。其の為、壁に叩きつけられても彼女の身体の損傷は僅かだが少なくて済んだらしい。
「やるじゃん、ね。でもわたしはてってー的にやっちゃうよ」
「おねーさんが考えを変えたら、エムも考えちゃうけど」
そう付け加えたエムオルの言葉に、ディーシャーは一つの案が浮かんだ。
(…もし、考えを変えて彼等の意に従う振りをして寝首をかいたら、どうなるのだろうか……)
思案の為に其の瞳を泳がせる。だが其の考えは直ぐに取り下げた。
(…いや、こんな手段に訴えるのは追従者としてあるまじきもの。氷晶の騎士の称号を賜った者として最大の恥。何より、アンクォアさんへの裏切りになってしまう)
邪だ、と振り払った考えを忘れるべく、ディーシャーは己を奮い立たせて再びエムオルの前に立つ。
「……思いの外、お強いのですね。でも、私にとって倒すべき方はもう一人。…復讐者!!私の相手をしろ!!其のツブ族と共に!!!」
急に、復讐者の名を呼ばれる。どうやら、ディーシャーの割り出した考えを悟ったらしい復讐者は、静かに振り返りディーシャーを冷たく見遣る。
「……良いだろう。ならば持てる力の全てを晒せ。どうせまだ持て余しているんだろう?」
彼の言い放った言葉にエムオルは驚き、ディーシャーは静かに睨み返した。
「よく看破した様で」
其の儘、静かに、ディーシャーの全身を彼女の氷が覆ってゆく。
…彼女の氷は、彼女を守る鎧へと形を変え、ディーシャーは変貌した。
ーー少女とレミエは、誰も居なくなった回廊を歩きながら、目的の場所まで進んでいる。
少女の話をレミエが静かに聞き、時にレミエが少女の知らない話をしながら。
…まるで、極ありふれた日常の一欠片の如く、二人の遣り取りは続いていた。
「…でね、アンクォアは……が…で、………だったんだ」
「それであたしとディーシャーが、……で………に、アンクォアを……………して、…なんだよ」
少女は心を開いたのか、レミエに己が経験していった事を楽しそうに話してゆく。対するレミエもまた、穏やかながら楽しそうに聞き続けている。
「まあ。そうなんですか…私もありましたよ、ユイルさんがよくそうやっていました」
時にレミエも、嘗て共に行動していたーーユイルとの間に起きた様々な事を少しずつ話す。両者の間に過去の出来事が花の様に咲いていた。
…そんな中で、少女は先程の様な状態に戻り、レミエに問う。
「…ねえ、レミエさん。……レミエさんはどうして、復讐者と旅をする様になったの……?」
少女の問いに、レミエは歩みを止める。少女も其れに合わせて歩むのを止めた。
「…私が、復讐者さん達と行動するのは、矢張り女神の行いに憤っているからです。私が、まだユイルさんと旅をしていた頃から、女神の非道な行いに巻き込まれた人達を見てきました」
「ですが、現状はもっと酷かったのです。復讐者さんが私の居た朽ち果てた聖堂にやって来た際に、彼から旅をする理由と、女神の行いを聞きました。女神の欲深さと傲慢が、彼から大切な方の命を奪っていた」
「其れだけではありません。長きに渡る中で、女神達は己の意に従わない者達を徹底的にいたぶり続け、迫害した。そして今も尚其の行為は続いています」
「私は許せなかったんです。ただ、其れだけではありますけれども。そして、復讐者さんの目的を聞いた時に確信しました。「私はこの時の為に此処に居たのだ」とーー…其処から、私は彼の力になると誓いました」
レミエが全てを語り終えると、彼女は何時もの穏やかな表情に戻って少女へ微笑みを投げた。
「………女神が、欲深で傲慢……………」少女は茫然とする。自分が見ていた女神の姿と、実際に世の人間達に行っている行為が矛盾していたのだから。
そして少女は、膝から崩れ落ちた。
レミエがそっと寄り添う。
「あたしのしてきた事って、何だったんだろう……あたしの知る女神って、そんな事をする存在だったなんて………あたし、そんな酷い事に加担していたんだ…!!」
少女の瞳から、涙が溢れてくる。
そして一粒の涙が、彼女の目から零れ落ちた。
握った拳が、少女の悔しさを物語っている。
「…あなたは、どうしたいですか?」
レミエの穏やかな声が少女を宥める。そして少女は、疑問を抱えたまま、決意を秘めた。
ーー…全部、アンクォアなら知っている。
「アンクォアに会いたい…!アンクォアに聞いて、あたしは全てを知りたい…!!レミエさん、あたしの事手伝って……!!!!!」
相手にしてからどれ程が経過しただろうか。ディーシャーの持て余していた力も底を尽き、決着が見えてきた。復讐者は一度動きを止める。
「もう止せ。二人相手に取るだけでもキツい筈なのに、騎士なら潔く敗北を認めろ。ディーシャー」
復讐者はディーシャーに敗北を促すが、其れでも其の手を緩めはしない。
「そういう訳にもいかないんですよね…」
「主君の敵を討つ為か?」
「ええ」
ディーシャーは其れ以上言わなかった。やや含みのある言い方であった…が、彼女は其れ以上語らない。最早、彼女に勝機は無くなった。
「…そうか。潔さは騎士の矜持だと思っていたのだが」復讐者は彼女から消えた勝機を其の手に取るべく動く。彼もまた、彼女の考えに同調して敢えて銃を使わなかった。
…其の彼女が抗うつもりならば、引導を渡してやるのも己の役割だ。
「エムオル、離れていろ」今度はエムオルに距離を取る様に促した後、復讐者は一歩一歩をゆっくりと歩み出る。もう立ち上がる事すら出来無くなり膝を付いたディーシャーの魂を、剣の中のニイスに喰らわせる為だった。
「ニイス、喰え。君の報復の為に」
復讐者が剣を持ち直した時、蒼く輝く光の様な焔が、黒い報復者の剣から溢れ出した。
其の輝きは女神の威光にすら勝り、そしてディーシャーの脳裏に嘗て見知った■■の存在を想起させる。更に同じく、嘗て関わりのあった"ある人物"の存在も、彼女の脳裏を支配した。
「■■さん………?」
ディーシャーの表情とは裏腹に、彼女の脳裏を過ぎった"存在"によって、ディーシャーの心は酷く不愉快になった。
(■■■さんからしか存じはしなかった…けれど彼女があれ程迄に嫌悪した…「身勝手な人」だと。私は其れを今でも覚えている……)
其の不愉快さから藻掻きたかったが、得も知れぬ不思議な感情に流され、目の前で起きる其れを否定する事もせず、彼女は成すが儘に復讐者の断罪を受け入れたーー
……………………
ディーシャーが閉じた目を開くと、薄ぼんやりとした光景が広がっていた。
(此処は…)
ディーシャーにはもう思考を巡らせる程の余裕は残っていなかった。立ち尽くすだけの彼女の前に、見知らぬ者の姿が現れてゆく。
ディーシャーが驚きに目を大きく見開かせていると、其れは、まるで霧の向こう側からやって来たかの様に霞に掛かって彼女の前に立った。
『■■■さん、お疲れ様だったね』■■■、と呼ばれたディーシャーには全く思い当たる事の無い声。
「だれ…ですか……」ディーシャーは意味の無い問いをする。無論、目の前の人物は答える筈も無い。
凡そ"彼"と思わしき霧の向こうの人物は、ただ一方的に語り始める。
『■■■さん、君には悪いが彼女達に近しい以上、分かり合えない。…其れは、他に居る追従者達も同じ。』
声の主は僅かだが寂しそうな声だった。
『でも安心するといい。君がこれから逝く場所は安寧と云う名の地獄。彼女達と同じ様に犯した罪の為に君は永遠に苦しめられるだろう』
『…然し、気に病む必要は無い。リンニレースも、レイヨナも、先に居る。ーーそれに、アンクォア…■■■さんも彼女達も、何れ其処へ向かうだろう。だから■■■さん、先に二人と一緒に彼女達を待っていてあげてくれないかい?』
寂しさの中に終始穏やかな青年の声で、ディーシャーが逝くべき先を示した。
ディーシャーは己が逝くべき先が、犯した罪の為に生まれてしまった場所なのだと悟り、取り返しの付かない結末に悲嘆しそうになった。
同時に、此れから其処へ向かう彼女達を憐れに思う。己が此れから受けるだろう罰よりも。
『君を助けるつもりは毛頭無い。彼女達と共に在る事を選んだ時点で、君の罪は確定した。事象の再選択は叶わない』
難しい言葉を述べる此の人物の存在に薄っすらとした既視感を覚える。不愉快だ、何て身勝手なのだろう、と。
でも其れ以上にディーシャーの中を悔恨が占めた。
後は語られるべき事は無い。
終末に辿り着いたディーシャーは、変えられない結末に一抹の不安と安堵とを抱え、静かに絶望した。
「…終わったか、ニイス」
復讐者の声が静寂を裂いた。先程相手にしていた追従者ディーシャーは、もう其処には居ない。
ニイスが、喰らったのだ。
復讐者は其の暗い表情を一つも変える事無く、ニイスに問う。
「ニイス、何故、最期の猶予を与えたんだ」
『……………………』
ニイスは珍しく語らなかった。ただその後、少しの沈黙を経て、ニイスは語る。
『…………まあ彼女、それ程悪いとは言えた立場じゃ無かったしね。あくまでも付き従っただけだ。だから僅かな猶予を与えて喰らった』
そして打って変わり声音を少しだけ明るくした後、
『さあ、まだ女神アンクォアが残っているじゃないか。彼女を喰らわなければ「女神殺し」は成り立たないよ?第二の女神の殺害の為には矢張り締めが必要だ』
ニイスは敢えて冗談を口走らせる。『此の女神の魂はどんな味かな』と。
(…憎い奴の魂を、美味そうに喰らっている様子は見た事が無い)と心で呟いた復讐者の心境から目を逸らす様にーー
「……………………!!!!!!!!」ガタン、と瓦礫が落ちる音がする。
復讐者とエムオルが音のした方向へ顔を向けると、赤い髪の少女とレミエか立っていた。
「……アンクォア…!!」少女の悲鳴に近い声が漏れる。
彼等の背後、瓦礫の山の傍に女神アンクォアが横たわっていた。物言わず、ただただ其処に転がっているだけである。
「復讐者さん…エムオルさん…!後無事でしたか……!!」
直ぐ様駆け寄ったレミエが、満身創痍の二人を見て癒しの力を行使し、懸命に傷を癒やす。
「あ、ありがとうー」
「済まないレミエさん、恩に着ます」
レミエの力で徐々に回復してゆく二人はレミエに礼を告げ、復讐者は横たわるアンクォアを前に座り込む少女へ言葉を投げる。
「…お前の慕う女神は其処に横たわっているが…どうする?お前も我々と戦うか?……追従者ディーシャーや其処の女神の様になりたければ来ると良い。慈悲は掛けないぞ」
復讐者の冷たい声は少女の心に突き刺さった。
…そして、少女は戦いの意思を捨て去った。
「あたしは…もう戦わない……あたしはただ、アンクォアに聞きたい事があった…」
「……そうか」
少女の涙が再び零れ落ちる時、其の涙は横たわるアンクォアの掌に落ちた。




