七羽
NYS日本本部は警視庁に隣接され、四本に渡る連絡通路で繋がっていた。異常事件について連絡が入るのが警察だから、すぐに対処できるようというのが表向きの理由。本当は、年端のいかない子どもでも相手を害す力がある能力者を見張る為というのが暗黙の了解だった。
警視庁特殊事件捜査課に所属している丹羽巧は、気づかれないよう小さくため息を吐いた。この頃ため息をつくことが多い。二十代後半に差し掛かった刑事は更に嘆息した。
糊のきいたスーツを身につけた丹羽は、端整な顔立ちも手伝って刑事というよりは実業家に見える。ホストにしては清潔感があり過ぎるのだ。
今まで睨んでいたパソコンから目を離し、椅子に凭れかかる。血税から賄われた経費で購入された椅子は、突然の暴挙にぎぃいいい! と文句を言ったが、支えるのが椅子の仕事だと問答無用で体重をかけた。
一日中ネットの海を彷徨っても欲しい情報は姿を現さない。そう簡単にいかないのが彼の少年である。捕まらないでいてくれるのは良かったが、こちらからも姿を晦まされてはどうしようもない。ぼやいたところで本人に届かなければ意味がないし、届いたところで、『貴方の無能を僕の所為にされても困ります』と辛辣な言葉が返ってくるだけだろう。
「疲れました……」
「本当にな」
ため息の代わりに洩れた言葉に返答があった。隣の椅子が軋みを上げる。どかりと乱暴に座り込んだのは同僚で同期の武田大吾だ。野球部にそのまま髪が生えたような男だ。外を歩き回っていた格好のままぐったりと天井を見上げている。使い古したジャンパーの下はセールで買ったよれよれのスーツだ。体力自慢力仕事担当の男が頭痛に耐えるように目を固く閉じる。風の強い外を歩き回り、身を切る寒さに頬は赤く凍り付いている。
丹羽も充分疲れていたが、一日外を駆けずり回った同僚の為に立ち上がり、不味いコーヒーを入れてやった。備品なので文句は言わないが、徹夜明けの脳に電撃が走るくらい不味い。礼を言って受け取り、一気に飲み干した武田はがばりと起き上がった。
「か――! まずい! もういっぱい!」
「入れましょうか?」
「いるか! こんなくそまずいコーヒー!」
叫ぶ彼に苦笑して座りなおす。少し心に余裕が出来たので椅子にも優しさをあげた。
「どうでした?」
「ダメダメ。チビ共すら、足跡も掴めなきゃ連絡も取ってきやがらねぇ。見張り撒きながらがんばったのによ――」
「そうですか……こちらも動きは見えません。とりあえず捕らえられたわけではないようなのでそこは安心していいと思います」
基本的に祓い人は三人で動く。祓い人が命の危険に晒される職業だからだ。
少し前まで二人以上が原則だったが、慢性的な人手不足の中で規定人数が増やされた理由は、数年前に起こった殺人事件だ。
霊現象が発生した現場へ駆けつけた祓い人が殺害された。そんなことは日常茶飯事だ。けれど、その事件の加害者は人間だった。パニックになった被害者が助けに入った祓い人を殺してしまったのだ。被害者は一転して加害者と成り果てたが、心神喪失状態とされた。肝試しにきていた大学生グループは、飛び込んできた祓い人を幽霊だと思ったと供述している。祓い人の遺体の損傷は激しく、遺族には見せられなかった。
命を懸けて人の死後の世話をする。大勢に理解されず、疎まれ、恐怖され、それでも助けてと縋られる。能力があれば幼子でさえ前線にかり出された。理解されず親に捨てられ、脅えられ、人に疎まれた子どもが人の為に命を懸けるのだ。
二人とも疲れを隠そうともせずに項垂れた。神鬼月と仕事をした回数が多いという理由から二人には尾行がついていた。この半年は忙しさを理由に碌に顔も合わせていなかったことが幸いし、二人が容疑者扱いされることはなかったが、もしも連絡を取ってきた時の為にと任意でつけられた。丹羽は鬱陶しいので笑顔と口八丁で追い返してしまった。動きがあったらお知らせします、ええ必ずと笑顔で約束した。
「上も何考えてんだが。あいつがテロなんてやるもんか。んな、くそめんどくさいもの」
「ですよね。頭も力もあるのに、興味だけはからっきしですから」
無表情、無口、無愛想。無い無い尽くしの少年はいま何処にいるのだろうか。容姿端麗頭脳明晰、彼を例える美辞麗句は事欠かない。モデルも裸足で逃げ出す美貌、教授を論破する頭脳、並み居る術者を足元にもつかせない力。神は彼に二物三物与えすぎたが、その代償に人間らしさを与えなかった。美しい人形兵器。人は彼をそう呼んだ。
その彼の防御壁を打ち破り、追いつめるほどの相手だったのだ。助けを求めてくれたら良いのに。そう思えてならなかったが、そんなことは有り得ないと分かっていた。
彼は人を信用しないどころか、誰も必要としていない。いれば使うが、いなければ簡単に忘れるだろう。それでも、思えてならない。彼の長くはない人生経験上仕方がなかったのだろうが、あの少年が困っているのなら、あの彼がそうしなければならなかった何かであったのなら、助けてやりたかった。エゴと自己満足であろうが、丹羽は警察官であり、大人だ。顔見知りになって五年。短くはない付き合いの中でそう思っていた。
寝不足と緊張から来る虚脱感、疲労がピークに達して目頭を押さえた。
事件を聞いたときは衝撃と興奮が先に立って疲れなど感じなかったが、冷静になってくればくるほど身体と精神が休息を求める。同じように疲れ切った武田の頬に何かを見つけた。小指の爪先程の蜘蛛だ。猪突猛進に走り回り、どこかで蜘蛛の巣を引っ付けたのだろう。くすりと笑い、取ってやろうと光る糸に触れた瞬間、びりりと静電気が走った。
『来るならどうぞ』
ふてぶてしい声が静電気と一緒に頭を走りぬける。武田もびくりと身体を震わせ、丹羽の指に乗った蜘蛛を凝視した。
「行きましょう」
急に立ち上がった丹羽に対し、余裕を持たせていた椅子はさほどの軋みを上げなかったが、武田の椅子は断末魔もかくやという音を上げる。やはり優しさは大事だ。
「ちょっと待て。罠ってことは?」
「能力者であろうと昨今式を持てる者は少ない中、わたし達に割く必要はありませんよ。自分で言うのもなんですが、神鬼月がわたし達に気を許しているように見えますか?」
「全っ然ねぇなぁ」
「そもそもわたし達は刑事であるだけで能力者ではない。それに、罠ならもっと丁重にお願いしてくると思いませんか?」
全くもってふてぶてしい。手助けを失って尚、彼はお願いなんて死んでもしないだろう。
よく見ると蜘蛛は糸と繋がっていた。きらりと細い糸が廊下へ続いている。念の為に糸を絡め回収しながら、二人の刑事は部屋を後にした。
走らない程度に廊下を急ぐと、偶に知り合いと顔を合わせる。もう帰るのかとさらりと問われ、何処か探るようだと気づいてしまうのは刑事の悲しい性だ。己の隠しきれない隈を指して、丹羽は穏やかに微笑む。
「ええ。この通りですから、大吾の奢りで酒でも飲んで帰ります。些か疲れました」
「おい!? 何で俺の奢りだ!?」
「先日、人の部屋に酒を持ち込んで大暴れして荒らしまわった挙句、ベッドを奪って朝まで爆睡したのは何方でしたか?」
「俺でした!」
満面の笑顔で言い切った武田に相手は苦笑した。
「武田――、ほどほどにしねぇと丹羽に捨てられるぞ――」
「本当ですよ。どうして三十分で足の踏み場がなくなるのか、未だに不思議です」
「なんだ、クリスマスイブに男二人か! 寂しいなぁ、おい」
「うっせぇ! イブに部屋に帰れもしねぇ奴に言われたかぁねぇよ!」
怒鳴り返した武田と穏やかに微笑む丹羽は、一見対照的な二人だったが、実は高校からの付き合いだ。ぽんぽんと飛び出る応酬を繰り返し、警視庁を後にした。
いつの間にか小さな蜘蛛は姿を消し、第一関節ほどの蜘蛛が乗っている。示されるがままに足を進めていく。
ふと、丹羽は足を止めた。
「連絡ありましたよ」
「あ? なんだよ、急に」
「いえね、必ずとの約束を果たしておこうかと」
首を傾げた武田だったが、目の前でにこやかな笑みを浮かべる友から、長い付き合いだから分かる何かを感じ取り、黙っておこうと心に決めた。
最終的に蜘蛛が掌サイズになる頃、二人は橋の下にいた。ホームレスすら居ない寂れたそこはゴミに溢れ、雑草が幅を利かせている。冷えた空気でも誤魔化しきれない悪臭に眉を顰めるが、腐敗した死体よりは芳しいだろう。
それまで大人しくしていた蜘蛛が飛び出していった。背に青翠の美しい模様のある蜘蛛だ。慌てて追おうとした武田の腕を、丹羽が掴む。
「大吾、誰かいます」
「神鬼月、か? おい! 出てこい!」
街に溢れかえったイルミネーションの光は遠く、月が作り出した影よりも深い闇の中にいた小柄な影は、転がるように駆け出してきた。面食らった二人の刑事を余所に、両手を広げて蜘蛛を迎え入れる。
「二葉――!」
黒のコートにロングセーター、黒のジーンズにブーツ、黒の帽子、手袋、鞄、黒の髪と瞳。まるで闇からそのまま抜け出してきたような少女は、蜘蛛を両手で掬い取った。少女が何かを慈しむ姿は微笑ましいが、それが蜘蛛では異質な光景だ。たとえ彼女の表情が心底安堵していようとも、どこか背筋を凍らせる。
「おかえりおかえりおかえり! あ――、無事で良かったぁ!」
どう見ても未成年の少女がいるには少々遅い時間帯だ。イブを考慮しても場所が悪い。
「おい、お前、誰だ!」
声を張り上げた武田に、少女は慌てて両手を振った。
「あ、初めまして、私は……え? やだよ。自分でやってよ! 眠い? だから寝とけって言ったでしょ! 信用できない? だったら出てけ――!」
突然、何処を向くでもなく怒り始めた少女をポカンと見ていた二人の前で、彼女は動きを止めた。合わせて揺れていた髪は、彼女ほどぴたりと動きを止めない。珍しいくらい長い髪だ。ここまで長いのは事情があるか病的か、どちらかだと丹羽は思っている。
そうとは知らない少女は徐々に動きを止めたかと思うと、何かに耳を傾け、突然地団太を踏んだ。
「あんたは何処の魔物だ!」
その言葉に刑事二人は過敏に反応した。所属している課が課だ。オカルトめいたと笑い飛ばせない職場にいる。弾かれたように飛び出した武田に驚いた少女は反射的に踵を返した。寸手で避けられたが、逃げ遅れた髪を悪いと思いながら掴んだ。
「やっ、痛い……!」
瞬発力と身長差に物を言わせ、腕を掴み直す。少女は涙を滲ませて髪の根元を抑えた。
「神鬼月はどうした! お前があいつを嵌めたのか!? 答えろ!」
泥とゴミを抱いた草むらの中を、遅れて丹羽が追いかけた。軽々蹴散らして走った武田を心底尊敬する。丹羽は二人の背後の影に気づき、銃を抜いた。
「動くな!」
振り落とされた蜘蛛が大吾よりも大きくなっている。足を開き、威嚇するようにかみ合わせた口元からは、しゅーしゅーと音が洩れ出ていた。闇の中でもてらりと光る牙と八つの瞳が異様な光を放っている。
視線を遣りながら、武田はどすの効いた声で怒鳴った。
「神鬼月をどこにやった!」
驚愕と痛みに見開かれた涙の滲む瞳が、すぅっと細まった。周囲の闇を吸い込んだかのように瞳の黒が色を増し、唇が閉じられると容貌は一気に凍りつく。少女の顔は切れ長の冷たい印象に変貌した。
似つかわしくない皺が眉間にくっきりと刻まれ、片頬を不愉快そうに歪める。
「『僕に触るな』」
声は少女の物だが抑揚がまるでない。零度の流し目が丹羽を向いた。
「『何を突っ立っている。この猪を止めるのが貴方の役目でしょう。髪が千切れていい加減痛い上に本体がぎゃんぎゃん煩わしい』」
思わず離された髪を鬱陶しそうに払い、少女は片手を上げる。
「『二葉、すまなかった。お前の主は無事だ』」
今にも飛びかかろうとしていた蜘蛛の鼻面を撫でると、蜘蛛は息と共に糸を吐いて身を摺り寄せた。それを軽く受け止め、少女は尊大に顎をしゃくる。
「『来たのなら前提無しで巻き込む。こちらへどうぞ』」
背の高い草を突き進み、橋を支える巨大な柱の中に入っていく背を見つめ、残された二人の刑事は巨大な蜘蛛と一緒に、その場に立ち竦んだ。
「…………あれは、もしかしなくても神鬼月か?」
「…………他に、刑事に向かって顎で指示する奴を知ってますか?」
疲労感が三割ほど増したのを自覚し、疲れきった身体を引き摺って柱の中に足を踏み出した。ぶつかるとは思わない。超常現象が存在するのだと証明されてからは、科学で説明のつかないことがあると世界は知った。二人はそれを専門とした課の刑事だ。今更怪の空間に足を踏み入れて腰を抜かすことはないのだ。
そこは今までとは全く違った場所だった。匂いも空気も景色も、生き物の気配さえ異質だ。足を踏み出せばぱしゃりと薄い水音がする。水は鏡のように広がっていた。水以外には何もない。ぽつりと一本の棒が立っているだけだ。少女はその前に立っていた。よく目を凝らせば、棒には目と口がついていた。
「じゃあ、話してたとおり少しだけごめんなさい。あ、これどうぞ」
黒い鞄からドラ焼き三個取り出して渡す。
「レイナラ、サキノブンデコトタリル」
「迷惑料と、人間は言うんです」
棒から生えた根にドラ焼きを渡す。相手は無言で受け取り、浅い水の中に沈んでいった。
それを見送った凛は二人の刑事を振り向く。少し警戒が先立つのは仕方がない。まだ頭皮が痛い。
「座る場所はありませんけど、ここなら邪魔は入りません。三人でお話しどうぞ」
促された水面を覗き込み、二人は息を飲んだ。少女の足元と繋がって黒い靴が見える。その先にはいつでも不機嫌な無表情があった。全身黒の着物は彼が身につけていた装束だ。私服でも黒一色しか着用しなかったが。
「「神鬼月!」」
「『うるさい』」
声は凛の物である。それでもようやく話の場は整ったのだ。