六羽
十二月二十四日。
休みの日は午前中から顔を出す娘が現れたのは、正午を過ぎて二時間経った頃だった。何故か大きな鞄を持っている。いつもは気を使って二色で現れるが、今日は一色だ。
美人な妻から化粧と鋭さを落とした、父親の贔屓目でないと思ってる(のが既に贔屓目だったが)可愛らしさのある娘は、ある時から黒い色しか身につけなくなった。
「遅くなってごめんね、お父さん」
袋の中には厚手の上着が入っていた。桔梗は申し訳なさそうに眉を落とす。美人な妻から鋭さを落とした甘い顔立ちは父親似だったけれど、彼も決して童顔ではない。息子も年相応の顔立ちだ。
「……その、ごめん、凛。年末なんだけど…………」
「え!? 熱出た!? 大丈夫!?」
それだけで何が起こったのか理解したのだろう。彼女がこの幼い頃から繰り返した。
帰れるよと喜ばせておいて、土壇場になって帰宅却下の通告。仕方ないよ、お父さんお大事にと笑う娘。家に帰っても誰も居ないのに、泣くどころか寂しいの一言も言わなかった。苦労ばかりをさせているのに、娘はとても幼い顔立ちだ。
「ちょっと、ね。本当にごめん」
寧ろしょんぼりしているのは父のほうだった。娘は、それなんだけど切り出す。
「母さんも急な仕事入って、昴瑠も学校が忙しくて年末帰れないらしいの」
眠って数時間の電話で叩き起こされた凛は、立て続けに二件のドタキャンを知った。
「そ、そんな! 凛、やっぱり父さん帰れるよう先生に」
ただでさえ悪い顔色を悪化させた父に、凛はウインクで答えた。
「大丈夫。でも、折角だから旅行行っちゃおうかなって思って。父さんが帰ってくる頃には帰るつもりだったんだけど。ね、行っていい?」
桔梗は驚いた顔を隠そうともしない。娘が旅行なんて修学旅行くらいしかしなかった。どこかに行きたいと言ったこともない。やっぱり今までたくさん我慢させてきたのだろう。
それを考えれば却下なんて出来ない。未成年だが、そこらの大人よりしっかりしている。それもまた親の欲目だろうか。それでも悩むのはこれまた親だからだ。
桔梗はしばし黙り込み、ふぅと小さく息を吐いた。
「凛が行きたい所に行っておいで。あ、無茶は駄目だよ。君のことだから大丈夫だとは思うけど、危ないことはしないで。定期的に連絡はいれること。いいね?」
「うん、大丈夫」
大きな鞄を持った娘は心成しかきりっとしている。必要以上に凛々しい表情をしているのは、何かを誤魔化す時の癖だ。一瞬許可を取り消したくなったが娘を信じることにした。娘は、自分達を悲しませることはしない。良くも、悪くも。いつだって聞き分けのよい子だった。申し訳ないほどに。
「気をつけていっておいで。お土産とかは気にしなくていいから。それと、これ」
差し出されたそれを、凛は驚いてつき返した。だが、桔梗は静かに首を振って握りこませる。
「ちょっと早いお年玉とクリスマスプレゼントだ。現金で悪いね」
「多いよ!?」
そこには現金で十五万円入っていた。元々は年末用に用意していたのだ。
「父さんの世話をさせたバイト代だと思えばいいよ。そう考えれば少ないくらいだ。お金があって損することはない。気をつけて行っておいで」
父さん大好き。そう言って抱きついてきた娘を抱き返して、桔梗は思い出す。苦労ばかりさせているのに、思春期の娘らしい嫌悪感は発揮されずほっとするけれど、父さんと結婚するんだーという父親の夢を言ってもらったことは、一度も無いのである。
急だったので学割証明書の発行なんてしていない。学割が効かず乗り込んだ新幹線の代金に苦虫を噛み潰して、凛は一人座った窓際でぼんやりと外を眺める。
クローゼットを空けた瞬間、溢れかえった黒色に何か言われるかと思ったが、それに対して特にコメントはなかった。
トンネルに差し掛かるたびに自分の顔が窓にくっきりと映る。怖いくらいに無表情だ。もっと愛想よくしてほしい。ただでさえ無愛想な色合いで過ごしているのだ。これで愛想もなかったら円滑な日常生活が送りづらい。
「大丈夫かな父さん、しかもなんか気づいてそう……」
『何かは気づいているだろうな』
「え!?」
当然とばかりに返されて思わず声を上げた。周囲を見回し、声を潜める。周囲は年末年始に浮かれ、疲れ、一言の大声なんて気にも留めなかった。それでも心持ち身を縮め、声を落とす。
「どうして分かるの。あの時はやけに大人しかったから、てっきり寝てたと思った」
『お前は馬鹿か。喋りながら寝ていたのか』
どうしていちいち人を貶さないと気が済まないのか。
『お前の父親は、気をつけろとは言ったが、楽しんでこいとは一言も言わなかった』
「あ!」
『喧しい』
目覚めて一時間も無い間に仕度し、渋る藍を歩きながら説き伏せて父を見舞った。今はびゅんびゅん飛び去るトンネルの光を眺めている。まだ頭が上手くついていかない。全部が夢だったほうが説明がつく気がした。
凛の格好が普段からこれだと知った藍の反応は早かった。髪が異様に長く、服装も異端そのものだ。追っ手が捜査を始めればあっという間に身元が分かる。早々に家を出ろと言い募る彼に、凛は大丈夫だと断言した。長く八つ目爺と過ごしたこの身体は闇に良く馴染むし、方法も心得ている。
追っ手が作り出した闇は、二葉から洩れ出た八つ目爺の魔によって彼らが予想したよりも深い闇となっていた。真黒い髪は溶け込んでしまい見えなかっただろう。流石に平常の状態で女と男を見間違えられては困る。
そう説明すると、藍は少し考えた。
『お前、管轄外だなんだのと言っていたが、個人で何かしていたのか』
「え? ああ、八つ目爺から斡旋された妖怪関係のお仕事をちょいちょいとね。人間関係の事は人間がいると便利だからね。その報酬で妖怪グッズを貰えて、重宝するんだなぁ、これが」
妖から話が洩れることも大丈夫だ。小妖怪はその地に根付く繋がりから発生する。むやみやたらと消し回れば、何かの怒りを買う可能性がある。藪をつついて龍を呼び覚ますかもしれない。目に見えるものだけが存在している訳ではないと、霊能者達はずっと昔から知っている。数も多いので心得のある者はわざわざ手を出したりしないが、風来坊のような流れ者は癒着も少ないので消したところで仕返しに来る者は少ない。だからあの時凛は、風来坊達を逃がそうとしたのだ。
ならば物で釣るのか。これは容易い。小妖怪は恐ろしい外見で甘い物をこよなく愛す。彼らは単純な思考で考える。今日会って明日去る異邦人。今までもこれからも会う日常人。どちらから貰う菓子の数が多いのか。妖のネットワークは井戸端会議並に早い。異邦人が好ましくないと判断すれば決して近寄らない。菓子より命が大事だ。
彼らは単純に思考する。
ぼんやりと景色を眺めていると、ふと今朝の夢が気になった。
朝食兼昼食を摘みながら彼に話題を振ったが、僕の夢だから忘れろと苦々しげに吐き捨てられた。夢を覗き見られていい気はしないだろうが不可抗力だ。顔はよく見えなかったし、全体はぼんやりとしていた。ただ、つんとした寒さがやけにリアルだった。きっと、あれは彼の過去だ。
「過去視なんて、したことなかったのに…………」
ぽつりと呟く。
『それだけ力があるのなら、出来て不思議じゃない』
「私に力なんてないよ」
少年達は二人でいるのに孤独だった。人は皆一人だ。なのに彼らはとてもよく似た色をしていた。二人の境遇や歳は知らない。だが、魂が似ていた。それだけ同質の雰囲気を纏いながら、彼らは孤独だった。二人でいるのに独りだった。
アナウンスから流れる放送に興味も持てず、凛はぼんやりと無表情の自分を見つめる。
「私、貴方に何処かで会った?」
ほんの僅かに目が開いた。自分の顔でなければ見過ごしたくらいの、変化。
『知らないといったのはそっちだ』
声はすぐに平坦を取り戻していた。
「喋るぬいぐるみの知り合いは、生憎といないんですよ」
『その他の交友関係はやけに広いご様子でしたが?』
軽口を叩き合いながらも、凛はどこかぼんやりとしている。
夢の感覚が消えない。消えないのは雪に飲み込まれて音のなくなった世界でも、身体を芯から冷やしていく零度でもない。知っている。あの温度を知っている。あの存在を知っていた。そんな感情が渦を巻く。何を、誰を。明確さはない。要領を得ない感覚が駆け巡る。
私はあの存在を知っている。
理屈のない確信に凛は戸惑った。そこに自分の行動の疑問を見つけて愕然とする。
文句はあった。迷惑でもあった。されど誰に強要された訳でもなく、どうして自分は新幹線に乗っているのだ。拒否は出来た。引き剥がす手が全く無かったわけでもない。
なのにこうしてここにいる。迷惑なのに、体調を崩した父が心配でない訳もないのに。
そもそも何かがおかしかった。
恐らくはたくさんの困難の果てに辿りついたぬいぐるみ。人間国宝である人が手足一つ動かせなかったのに、凛の身体にはすんなり収まってしまった。
彼と自分に共通点などない。せいぜい年の頃が近いくらいで、性別すら異なる。それだけで反発が強まる理由となる。魂と身体が異なれば酷い抵抗と拒絶反応が起こるはずが、最初からそこに居たようにすっぽりと納まってしまった。
似ている、ではない。同じなのだ。
何かは分からないが、凛と藍は、何かが全く同じだった。とても深い何かで、恐らくは二人を構成している根幹に位置するものだ。だから二人の魂は何の抵抗を見せずに綺麗に嵌った。欠けた物が補われたのではない。ならば増量されて何らかの変化が出るはずだ。倦怠感であったり、嗜好の変化であったりといった副作用がまるでないのだ。同じ物が同じ所に納まっただけで何の変化もない。
夢の中で凛は二人を見ていた。全体がぼんやりとして感覚でしか捉えられないのに、恋しい。寂しい、辛い、切ない、憎い、愛しい、苦しい。
沸きあがった感情の中で、一番比重を占めていたのは。
かなしい。悲しい、哀しい。ああ、カナシイ――……。