一羽
十二月二十三日。
隠すような小さい咳払いに気づき、春日部凛は急須を置いて振り返った。父の好きな玄米茶がほかりとした香りを放つ。
病室といえば白い印象があるが、ここはそうでもない。木をイメージできる木目調の棚に淡いクリーム色の壁だ。ふわりと揺れたカーテンは緑色。棚には合わないが、緑は健康色だそうだ。ここは、長期入院患者用の個室で、少しでも閉鎖的な感じを無くしている。
「お父さん、大丈夫?」
「大丈夫だよ、凛」
背を向けて茶を入れているのに、小さな咳払いをしっかり聞かれた父、桔梗は、白い顔でふわりと笑った。三十路はとうに越えたというのにどこか幼く、儚い印象から逃れられない笑みだ。
「本当? ……雪は降らないけど、やっぱり寒いね。換気はもういいから閉めるね」
少々肌に触る風を感じて、凛は窓を閉めた。
「上着はあったよね? もう少し厚いの持ってこようか」
「大丈夫大丈夫」
てきぱきとお茶を入れて父に渡し、綺麗に畳まれた着替えを棚にしまい、上着のチェックをし、ゴミ袋を纏めるのも忘れない。
十六歳の娘はすっかり慣れた様子で長期入院中の父親の世話をしている。今日から冬休みだというのに、彼女は毎日休まず見舞いに来るのだ。偶に一時帰宅が出来るだけの父の元に、休みの日は朝からやってくる。
母親の雲雀は世界を飛び回るキャリアウーマンだ。日本に帰ってくるのは年に片手で足りる。凛と一つ違いの弟、昴瑠は、父に似たのか身体が弱く、雲雀の両親の元に預けられていた。空気が綺麗な場所で身体が丈夫になるまでのつもりが、雲雀は日本にいないことが多く、桔梗がこの状態の上に、祖父母が手放したがらない。
ずっと家に一人置いてしまっている娘は、愚痴どころか嫌がる素振りすら見せない。桔梗はそれが申し訳なくてならない。
「…………いつもごめんね」
今年で三十六になるのにどこか少年的な線の細さが抜け切らない父親に、凛は苦笑した。
「オジイサン、ソレハイワナイヤクソクデショウ?」
わざと作られた少ししわがれた声でそう言った娘に、桔梗も苦笑を返す。
「分かった分かった。年末の一時帰宅は大丈夫そうだから、一緒に買い物行こうね。さ、今日はもう帰りなさい。日が落ちるのも早くなってきたから」
「うん、楽しみにしてる。お父さん、ご飯頑張って食べてね」
「うん、頑張るよ」
「もうちょっと太らないと、また兄妹に見られちゃう」
「う……! 頑張る!」
それが一度や二度ではないので、桔梗の顔は真剣そのものだ。それでも多分兄妹に見られるんだろうなぁと思う。
彼が兄に見られる原因は痩せた身体だけではない。今も両手で拳を握って決意を固めている、どこか幼い言動も理由の一つなのだが、そんな父を可愛いと思う凛は、それを教えることなく病室の扉を閉めた。
顔見知りの看護師とすれ違いながら頭を下げる。凛を彼女を知っている大人達は、いつも偉いわねぇと感心した。
病院を出て、まずは灰色のカーディガンを脱ぐ。そして大きな鞄の中から黒い上着を取り出して羽織った。
今時の女子高生と呼ばれる年齢にも拘らず、どこをとってもそれに当てはまらない凛の格好は酷く目立った。染めもせず、パーマもかけず、流れるように黒い髪は背中を越そうとしている。無造作に伸ばしているわけではないので、風が吹けば美しさを伴って目を引くが、それでもやはり長い。
何より奇抜なのがその格好だ。若い女子でありながら、使用している色が一つしかない。靴から髪に至るまで、全てが黒で統一されていた。鞄まで黒い。徹底して他の色を排除しているわけではない。徹底して、黒に統一しているのだ。
流石に病院という場所でその一色は憚られたので、長い灰色のカーディガンで覆っていたに過ぎない。
一見法事帰りかと思うが、これが凛にとっていつもの格好だった。
買い物をして帰ろうとスーパーに向かっていた凛は、見つけたそれに眉を下げる。
「そうだ、掴むのならそこにしろ。尾はやめろと言っているだろう。いいか、そのままお前の寝床に運べ。話は全てそこからだ」
淡々とした抑揚のない声なのに、どこか偉そうな声の持ち主を見て、凛は下げた眉を困ったように歪めた。
ふんわりとした耳をまっすぐに並べて伸ばした、ピンク色の兎がそこにいた。
首元にはレースのリボンが巻かれ、掌に乗る愛らしい大きな目をくりくりとさせている。そこから少年の声がするだけでおかしい。おかしいのだが、更に残念なことに、それはぬいぐるみだった。
まずぬいぐるみが喋るところからおかしい。確かにお喋りするぬいぐるみもあるにはあるが、どこの世界に、猫に偉そうに命令しているぬいぐるみがいるというのだ。
凛は、頭痛がする頭を押さえた。
ぬいぐるみは、あるかないかの小さな尾を猫に銜えられて、偉そうに指示を出している。心成しか、銜えた側の猫が困った顔をしているのがなんともいえない。
「……………………おにぎり、そんなもの寝床に持っていっちゃ駄目だよ」
猫のほうには見覚えがある。黒と白のまだら模様なのだが、顔を正面から見ると海苔を巻いたおにぎりに見えることからそう呼ばれている猫だ。
すっかり垂れてしまったおにぎりの尻尾に、放っておくこともできず声をかけた。
ぬいぐるみが驚愕と警戒の視線を向けてくる。万人に愛らしく思われるよう作られたそれがそんな顔も出来るのだと、妙なところで感心してしまった。
「……僕の声が聞こえるのか?」
「おにぎり? それ、私にちょーだい?」
「それというのは僕のことか」
「あらぁ、くれるの。ありがとう。ちょっと待って……確かポケットに何か……」
こんな時の為に準備しているあれこれの中で猫にあげていいものは、レンジでチンしたささみだろう。放ってやると嬉しそうに、にぃと鳴いて一度腰を振ってから駆けていった。
手を振って見送り、すっかり黙ってしまったぬいぐるみを摘み上げる。不愉快そうに睨まれた。愛らしい顔でこんな顔が出来るのか再び。その内三度になる予感はしている。
じーっと見つめて、妙な違和感に気づく。
「あれ、これ、生霊?」
表情を強張らせたぬいぐるみに鼻を近付けると、死霊が放つ鼻につくすえた独特の臭いがない。目を細めて更に見つめるとうっすら人の形が見えた。
「あ、やっぱり。身体あるのにどうしてこんなのに入ってるの……私と同い年くらい……かな。髪は黒で……これ以上分かんない」
「この程度の媒介から霊視まで出来るのか」
ぼんやりと少年の輪郭が視えるが、酷く霞がかって大まかにしか分からない。だが、死者のそれとは明らかに違う色合いにほっとする。
それほど危険ではないだろう。おにぎりにあげてもよかったかもしれない。
身体を持っている者はそっちを基盤に動くようになっている。どれほど強力な力を持っていても、大半を体に置いてきているのだ。
だが、死霊は違う。
際限を全て置き去りに想いだけで存在している。いつその感情が爆発するか分からない。強い想いは時に強固な精神力を発揮する。それが害をなさないとは限らないのだ。
ぬいぐるみは愛らしい顔を不信感と怪訝さでない交ぜに歪めて、じっと凛を見つめた。
「…………お前、何処かで会っていないか?」
「雑貨屋さんでも、ゲーセンでもお目にかかった覚えはありませんけど」
摘んだまま歩き出そうとしたが、ぬいぐるみに止められた。ぬいぐるみに左右される十六歳ってどうなのだろう。
「お前、何者だ。NYSか?」
NYSは、超常現象対策機関として国が作ったものだ。
世界中の国が持っている機関で、名称は国ごとに違うが取り扱っている事例は同じだ。
即ち、科学で証明できない現象に対する対策機関だ。
昔からゴーストの話題に事欠かないイギリスが発祥となったが、今ではほとんどの国がその機関を持つが、機関は国ごとに独立していた。系列を同じくして全てを統一することは、信仰の違いなどから難しかった。
国ごとの基準があるが、基本的に術者と呼ばれる力を持つ人間で構成されている。国によっては能力者は強制的に所属させられる場合もあった。
その中で、NYSは、日本機関の略称である。
教科書によると命名した人は薄目栄一郎という男だ。彼は日本国内で作って名付けるのに、何故英名をつけなければならないのかと非常に不満だったそうだ。しかし世界会議の際に呼びづらいという意見が出され、妥協の結果、略称だけアルファベットを用いたという。
ちなみに正式名称、日本神精妖霊対策機構という。
ローマ字にして頭文字をとったのだと、教科書から少しずれた先生の雑談で知った。ご多分に漏れず雑談のほうが面白く、肝心の前後部分は覚えていない。
結局、世間一般で常識とされる範囲だけしか覚えていない記憶を引っ張り出しながら否定する。
「違います。えー……どうしよう面倒くさい…………アナタオナマエハ? マイゴデスカ? オウチヒトリデカエレマスネ?」
基本的に、人間の揉め事は取り扱っていないのだ。できれば自分で解決してほしい。
「………………明らかに放り出すつもりだな」
心成しか半眼のぬいぐるみにぎくりとする。どうしてばれたのだろう。
「お前、それだけの力があって所属無しか」
「私に力なんてないよ。あ、やだ、暗くなってきた。買い物まだしてないのに」
ため息をついて、ぬいるぐるみをバッグに放り込む。文句が聞こえたから顔だけ出してやる。愛らしい兎が鞄からひょこりと顔を出している様は、皆無だった女子力がついた気がしたけれど、たぶん気のせいだろう。
「放り出すにしろ、おにぎりにあげるにしろ、どっちにしても明日にしよう。夕飯どうしようかなぁ……豆腐が安かったよね。豆腐ステーキにしよう。あ、そうだ。ぬいぐるみ君。名前教えて。呼びづらいから」
「断る」
「じゃあ、ラブラブプリチーエンジェルスイートピンクラビットちゃま」
「……………………藍。藍色の藍で、藍だ」
心底嫌そうな顔で吐き出すように名乗ってくれた。
「あ、近い。私は凛。別に凛としてないけど。これも何かの縁かなぁ。宜しく、藍」
掌サイズのピンクの兎は、不機嫌そうな半眼になった。親指程の小さな手を取って勝手に握手する。盛大に嫌そうな顔をされた。