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十八羽




 凛は緩慢に目覚めた。意識は粘着質で浮力のある液体にまどろんでいるようだ。身動ぎ一つ出来ない。最も、少しでも動くと腹が激痛を齎し、じくじくと慢性的に吐き気を催す鈍痛が疼いていたから、どちらにしても動けるはずもなかった。

 全体重で凭れている怪には左腕がない。彼が夜叉丸だ。八つ目爺を思わせる力ある怪だ。しかし格好はおかしなもので、女物の着物を羽織り、廓言葉を使ったと思うと武士を思わせたりもする。

 主の身体に入った異物に対して、意外なことに敵意はなかった。何故かと問うと、蓮の身体が拒絶せずに受け入れたからだそうだ。それだけで心底納得されるほど、彼は誰も受け入れなかったのだ。


「二日でありんす」

「え?」

「この結界の限界でござって候」


 天気を告げるように夜叉丸は笑う。結界が無くなればあの男は大喜びするだろう。その時、中身が違うと知れば怒り狂うだろうか、絶望するだろうか、悲しむだろうか。

 ああ、ざまあみろ。

 浮かんだ酷薄な笑みを、凛は静かに首を振って振り払った。人の顔で浮かべていい表情ではない。


「今日は何日か、分かる?」

「晦日で候」

「ふ……ほんと言葉遣いばらばら」

「如何なる時代でも、男女ともと恋をしたからでありんしょう」


 笑った口元から覗いた牙は鋭かった。

 恐怖はない。凛は近づく鼓動に気づいていた。蓮一人分では見つけられなかった。しかし、今は二人分だ。蓮の身体が精神を呼び、凛の精神が身体を呼んでいる。更に自覚したラインがある。錬が蓮に繋げた絆は、二人の場所を感覚的に教えていた。


「もう来るから、解いても、平気かもね」


 夜叉丸は少し意外そうに細い眉を上げた。


「対処なくして解けば死せるでありんすえ?」

「あ、そりゃ困る」


 外が騒がしくなる少し前から、夜叉丸は音を捉えていたようだ。狛犬達より長めの耳が動いている。

 会いたかった。会いたくてどうしようもないのに、会ってどうしたらいいのか分からない。彼の身体に刻みついた錬の記憶が痛い。思い出に出来ずにいるのは凛とて同じだ。



 襖の向こうに荒々しい足音が辿りつき、怒声で途絶えた。雪崩れ込むように人間とそうでないものが溢れ返る。一人も逃がすな! 誰かが叫び、誰かが呪うように怒鳴り散らして押さえ込まれた。

 誰が何を言っても決して結界を解かなかった夜叉丸は、鼻をひくりと動かして視線を動かした。その先を向いて凛も相好を崩す。真っ先に飛び込んできたのは二葉で、結界に弾かれておろおろと動き回っている。

 その直後人混みが割れ、武田に抱かれた自分がやってくる。怖い。睨むな。

 武田は、足元でちょろちょろと動き回りながら心配そうに見上げている霰と霙を蹴られないように苦心していた。

 偉そうに顎をしゃくった自分が指示を出す。少し手前で降ろされた身体は、這いずって畳を滑り、手を伸ばした。腹の違和感を無視して掴み、二葉と一緒に結界の中に引きずり込む。自分の腕の細さにぎょっとした。普通だと思っていたが、他者から掴むとこんな感じだったのか。


「器を替えても満身創痍でござりんすなぁ」

「五体満足じゃないお前に言われたくない」


 長い息を吐いて体勢を整えた自分の貫禄に居た堪れなくなる。童顔童顔と言われてきたが、何だやれば出来るじゃないか。怖いぞ私。

 見慣れない短い髪の、見慣れた自分と目が合う。僅かな沈黙の後、嫌そうな顔半分、困った顔半分の複雑な表情をされた。やめて、蓮。私の表情筋はそこまで鍛えてない。


「僕の顔で泣くな」


 苦虫を噛み潰したような自分の声の指摘に、初めて泣いていることに気づいた。痛みと切なさで胸が絞まる。恋しさと虚しさで呼吸も侭ならないのに、凛は笑っていた。指摘されて初めて表情が歪む。両手で顔を覆う。何かに許しを請うように背中を丸めて頭を垂れた。




「ランが、死んだわ」


 ぱたりぱたりと畳みに涙が落ちる。


「私達は、彼を失ったのよ」


 好きだった。本当に大好きだった。凛は幼かったけれど、あれは確かに恋だった。恋で、愛で、夢だった。彼といたかった。彼と生きたかった。彼に笑っていてほしいと願う心は愛であり、自分の隣で笑っていてほしいと願う程には、確かに恋だったのだ。

 凛はずっと恋をしていた。幼い恋を抱え、終わった恋に焼かれながら、一人ぼっちで恋をしてきた。





 肩に手が置かれ、身体が無理矢理起き上がる。腹の傷が疼く。結界が解かれれば痛さで気を失うだろう。早く処置しなければならないと分かっていた。けれど感情が飽和して止まらない。

 滲んで碌に役に立たない視界一杯に自分の顔が見える。柔らかい唇が重なって、悲鳴のようなどよめきが周囲から聞こえてきた唯一の音だった。

 一瞬の瞬きの間に、腹の疼きは足と右腕に変わり、見慣れた顔がえらく美形になっていた。


「会うのは、仇を取ってからと決めていたのにな……」


 腹の痛みに一瞬顔を歪めた蓮は、少し距離を取って、額を畳みにつける。


「僕があなたのランを殺しました」


 慇懃無礼な態度は消えうせ、そこにいたのは断罪を待つ贖いの少年だった。美しい少年は、額を擦りつけて断罪を乞うた。許しではなく、断罪を請う。


「あなたからランを奪い、絆を裂き、世界を壊したのは僕です。贖います。命令を。如何様にも叶えます。あなたに従います。僕の力も、魂も、全部。僕はあなたの物です。あなたにお仕えします」


 主が膝を折って頭をついた姿に夜叉丸も従う。主の右斜め後ろで腕がないとは思えぬ美しい視線で頭を下げる。狛犬二人もぱたぱたと走り、左斜め後ろでちょこりと頭を垂れた。


「春日部凛さま」


 自分に向けて下げられた頭部を見つめる瞳から、溢れだす涙は止まらない。


「あなたが、僕の主です」


 欲しいのは罰か罵倒か。それとも少し違うのか。彼はランをそうと知らず慕った。愛というにはきっと少しずれていて。それはおそらく凛も同じだろう。執着より貴く、愛より破滅的で、恋より厳粛だ。けれど凛達はランが好きだった。それだけは違えようのない確かな事実だ。


「どうぞご自由にお使いください。僕の全てはあなたの為にあります。この全てをあなたに渡す為に生きてきました。あなたの為に生きます。あなたの命で逝きます。あなたの言葉だけが僕の真理です」


 乞うて、請うて、恋うている。その思いを一心に向ける人は、もういなくとも。

 涙が頬を伝い落ち、握りしめた掌に落ちた。

 分かった。分かったよ、ラン。私の錬。かつて、私だけの錬だった貴方からちゃんと受け取ったよ。だから、どうか安心して。




 乱暴に涙を拭い、正座をしようとして痛みに顔を顰めた。結局足をずらしたまま向き合う。


「蓮、話をしましょう。大事な話は人の目を見てするものです」


 腹の傷を厭わず背筋を伸ばした様子に苦笑する。痛いだろうにおくびにも出さない。怪達は頭を垂れたままだ。いつもはぱたぱたと動く子どもまで、耳や尾すら動かすことはない。

 凛は、慎重に言葉を選択した。


「私はランを失った。事実よ。でも、傷ついたのも嘆いたのも同じよ。あの人を失った痛みは、私達同じなのよ」

「僕の所為で、彼は死にました」

「紀煉の所為よ」


 尚も言い募ろうとする一つ年下の少年の手を握る。びくりと身体は跳ねたが拒絶はなかった。


「ねえ、蓮、聞いて。私は貴方に会えて嬉しいの。彼が遺してくれたのよ。私が一人で泣かないように、同じ痛みを持つ貴方と会わせてくれたの。貴方には私を。貴方が泣けるように、同じ世界の崩壊を知った私を」

「僕は、あなたに償わなければ」

「ねえ、蓮。彼の願いだよ。決して祈らなかったランが、貴方の幸福を祈ったの。貴方を私にくれるなら、貴方のままにして。服従なんてやめて。人を馬鹿だの阿呆だの粗忽者だの、憎たらしいったらないけど、それが貴方なんでしょ? だったら、そうして。死んでないだけの生なんて冒涜だよ。ランだって言ったじゃない。貴方の命はこれからだって」


 貴方の人生は貴方のものよと言う事は簡単だ。けれど、それだと蓮は生きようとしないだろう。ランが彼を凛のものだと定めたのもその為だ。自由だと解き放つ事は、今の彼には突き放すと同義だ。ランは他の誰かの愛し方を教えていかなかった。彼には時間が足りなかった。

 代わりに凛を遺した。ランが託した幼子だ。凛には育てる義務があり、切望がある。既に情は移った。くれるというなら貰おう。一人の人生を握る代償として、幸せにする責務を果たそう。


「手始めに、一緒に探そう。ランがいなくなっても生きていける道を、ランがいない中で見つけよう。ランを失くしたまま、笑う方法を、探そう」


 平気には、一生ならない。半身をもがれた痛みと憎悪は一生連れていく。その中で足掻いて、笑っていること。ランは凛にそう望んだ。いつだって笑っていることを望んでくれた。悲しませない。笑っていてほしい。願ったのは凛とて同じだ。


「その為に、貴方はまず泣かなくちゃ」


 固く結ばれた唇を指でやんわりと解くと頭ごと抱え込む。あの日以来泣いていない瞳は、頑なに崩壊を拒んでいる。でもごめん。私さっきその瞳で泣いちゃった。


「大丈夫よ。貴方と泣く為に、私は、ここにいるんだから」


 頭を撫でて背を抱くと、強張っていた身体が緩慢に解けていく。他の誰かなら即座に突き飛ばされているだろう。しかし蓮は、交し合う体温を享受した。

 凛は慎重に温もりを分けた。さっき自分で知った、私の身体は温かいでしょう? 女の身体は柔らかいでしょう?

 人はおぞましいだけではないと教える物が、今はこの身一つしかないなら幾らでも使う。これまで特に何かを感じたことのなかった性差がありがたい。女に生まれてよかったと初めて思った。

 手を掴んで背に回させる。


「大丈夫。私は頑丈だから、少しくらい強くても壊れたりしないよ」


 ぎりりっと立てられた爪に苦笑する。人に触れない少年は加減を知らない。

 しかし、痛みでも構わなかった。彼の背が震えてほっとする。鉄壁の拒絶を飽和させるほど、ランを失った絶望は凄まじい。蓮を泣かせてしまうほどに。

 血が固まった頭に頬をつけ、全身で抱いて、凛も泣いた。


「蓮、約束をしたことはある?」


 胸元を濡らしていく頭が振られる。


「じゃあ、初めての約束よ。一緒に、ランのいない世界に絶望して、憤って、泣いて、喚いて、そして笑おう。私と一緒に、ランのいない世界で生きよう」


 人は死ぬ。今日か明日か百年後か。蓮が先か凛が先か。もしもこの手を離すとき、先に逝くときは、約束の違え方を教えていかなければならない。今度こそ、ランに足りなかった時間で蓮に教えたいことが沢山あった。

 だけど今は、これだけで充分だ。


「錬に愛されてくれて、ありがとう――……」


 自分以外の体温を抱きしめて、凛は何故か、彼が人間でよかったと思った。怪ではなく、幽霊ではなく、生霊ですらなく。

 人であることに、心から安堵したのだ。





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