十七羽
少年は錬と呼ばれるのを酷く厭い、ランと名乗っていた。人一倍器用で人一倍癖があったのに、人一倍世渡りがうまかった。誰とも付き合わなかったのに、誰とも諍いを起こさなかった。
それなのに錬は、壊れた蓮をよく構った。可哀想な子どもへの同情でもなく、同じ被害を受けた同族意識でもなく、ただ構った。誰にも伸ばさなかった手を蓮に伸ばした。縋る為でも繋ぐ為でもなく、ただ触れた。
その手だけだった。
その手だけ、蓮は拒絶反応を起こさなかったのだ。
二人が共に過ごしたのは出会った橘の施設ではなく、NYSに保護された後だった。
背中に凭れた身体をそのままに、蓮は集中していた本から視線を上げた。
「どうしてランは僕に構うんだ」
幼い子ども特有の高い声で紡がれた抑揚のない声音は、ひどく異質だった。
どれほどつれなくしても一向に解さない錬は、ふわりと背中越しに抱きつく。柔らかく少し高い体温は、子ども同士でよく馴染んだ。
「うん、僕もとても不思議なんだ」
少女のような少年は、珍しく思考に没頭して黙り込んだ。
「僕も大概壊れているけど、君ほど決定的じゃない。僕は唯一人を定めたが故の一人を選んだけど、君は誰もいなかったが故の独りだ。僕は人も怪も要らない。彼女がいない世界は汚いと思う。……けど、君ほど崩壊した人間を見ると、美しいものもあるんだよって、人は、君が思っているようなものだけではないんだよって、教えてあげたくなるんだ。それはたぶん、僕も人だから。君が見てきたものはこの世の吹き溜まりだ。害悪だけ。人は結局、知っていることしか知らない。知らないことは分からない。だから、君の世界は崩壊しているんだ」
無造作に伸びてきた手は蓮の頬を包んだ。
額をぶつけ、柔らかく微笑む。
「僕もそんなにたくさんのものを持っているわけではないんだけれど、僕は奇跡を知っている。とても明るくて、温かくて、柔らかい、僕の幸そのものを」
思考が流れ込む。幼い少女が「蓮」の手を引いて走り、長い髪が頬をくすぐる。くるりと振り向き、少女は笑う。光を呼ぶように「ラン」と笑う。
「君に奇跡をあげる。僕の半分になってくれた僕の幸を、君にも分けてあげる」
人はそんなものだけじゃない。他者を受け付けない蓮に、他者を寄せ付けない錬が教えたのは、生まれて初めて感じる悪意の反対に位置するものだった。
「幸せの名前を教えてあげる。それはね――……」
少女と手を繋ぐ錬の感情が蓮に流れ込む。温かくて、柔らかくて、くすぐったくて、優しくて、愛おしい。それは決して蓮のものではなかったけれど、まるで自身が感じたように胸を満たした。理解不能の感情に、蓮は熱を出して寝込んでしまった。
二人が穏やかに日々を過ごした時間は一年もない。
終りは唐突にやってきた。
とても、寒い日だった。
蓮の目の前に男が立つ。雪が弾いた逆光と、大きな笠の中に顔は隠れてしまっていたが体格から男と分かる。男が伸ばした手を反射で避ける。男は笑ったように微かに揺れた。
夜叉丸は任務で借り受けられている。大掛かりな作戦だったらしく、施設のほとんどの能力者が外に出ていた。
残っていたのはごく少数の施設管理者と、保護されていた子ども達だ。
「何を、しているんですか」
錬が立っていた。任務帰りなのか、雪の中に溶ける真白い服を着ている。
珍しく固い声音で蓮の手を引き、錬は自らが前に立った。
感情の機微に誰より敏かった蓮は、目の前の男の危険性に逸早く反応していた。錬とて気付いていないわけではない。ただ、死ぬならそれもいいと思っただけだ。汚らわしいものばかりを見てきたこの瞳を永久に閉ざせるなら、それでもいい。
否、一つだけ、一つだけ綺麗だったものがある。綺麗だった人がいた。その人と繋がっている少女も、きっと。綺麗な人が愛した半身は、きっと、きっと、この世で一番。
「残念だ。非常に、無念でならない」
男が長刀を引き抜く。白い光が刃の先まで照らしきる様を無反応で見送る。絶対の力量差がある相手が自分を殺す。逆らう理由が無かった。
「美しく完成されたものが壊れていく様を見るのは耐え切れない。ならばいっそ、美しいまま壊れてくれ」
身勝手で傲慢な理由で殺されることも気にならない。蓮は世界の何にも期待していなかったけれど、錬がくれた美しいものも知った。未練なんてない。
「完成? 蓮が?」
「そうだとも。他者を排除し、独りであるが故の美しさが分からないのか? それは才ある人間こそが極められる美だ。美しく、才ある存在が、孤独であるが故の危うさで研ぎ澄まされていく様こそ至宝の価値! 何故君はそれを壊す? これほどに美しい素材が他にあるはずもないのに! 君とてそうだ。なのに、何かにしがみつき、境界を越えずにいる」
身のこなし、雪の上に乗せる体重。男の実力は子どもの目から見ても明らかだった。
「だから、蓮を殺すと言うのですか」
「醜く壊れていく様を見るのはしのびない。美しいものは美しい時に壊してしまうのが優しさだろう? そして、人の責務でもある」
切っ先が頬を擦る。蓮は身じろぎ一つしなかった。一筋流れ落ちた赤が雪を汚す。
錬はさほど体格差のない蓮を、自らの背後に隠す。
「傲慢だ。あなたの価値観は愚かしい。そんな物のために彼を殺すと?」
「君の許しと理解を得ようとは別段思わないが、君とて同罪だ。芸術を壊すものは罰を受けなくてはならないだろう?」
雪が弾けとんだ。錬を中心に力が凝縮され、弾けるように爆発を繰り返している。髪が乱れ飛び、雪が視界を覆う。
「蓮は殺させない」
雪を積もらせた木々が根こそぎへし折れる。岩すら砕ける中、男は焦るどころか感嘆の声を上げた。
「……素晴らしい。君も堕ちてさえいれば、彼のように至宝となっただろうに」
「あなたのお眼鏡に叶わないのなら願ったりです」
男は悔やむように首を振った。次の瞬間、男の身体は錬の前にいた。少女のような顔が驚愕に歪む暇もない。強烈な蹴りを腹に受け止めて、小柄な身体が跳ね飛んだ。
「ら、ん」
声が勝手に滑り出た。そこに蓮の意思などない。呼ぶつもりなどなかった。抵抗する理由も、生に留まる理由も。
「らん……」
雪に塗れた身体に手を伸ばす。無意識に歩み寄ろうとした蓮を男の手が止めた。冷え切った体温同士が重なったにも拘らず、凄まじい拒絶反応が湧き上がる。大量の記憶がフラッシュバックされて点滅した。
悲鳴は、研ぎ澄まされた冷気によって微かな喘ぎにしかならない。おぞましい。おぞましいものが、自分に触れている。蓮は白い息を吐いて絶叫した。
「ああ、本当に、無念でならない。君達が独りでいてくれたなら、他者と関わろうとせず、そのままでいてくれるなら……こんなにも価値ある原石を砕かずに済んだものを」
苦しい怖い憎い痛い辛い恐ろしい嫌だ悲しい。お母さんお父さんお兄ちゃんお姉ちゃん武史美菜子徹理沙先生先輩おじちゃんおばちゃんお爺ちゃんお婆ちゃん。
会いたい逢いたい会いたい帰りたい帰りたい帰りたい。行きたい生きたい。
死にたくない!
湧き上がる自分のものではない感情から逃れられるなら、もう、なんだってよかった。
三日月みたいな半円を描き、振り下ろされる狂気をただ待った。早く、早く途絶えさせてくれ。そう願いさえした。
それなのに。
「蓮の命はこれからだ」
宙に多数の刃が浮かび上がる。空が見えないほど埋め尽くされた透明な刃を、男は恍惚と見上げた。
「……本当に残念だ。これほどの才を、この手で壊さなければならないとは」
大気中の水分が鋭利な刃物となって男に襲い掛かる。雪が意思ある生物のように蠢き、巨大な竜を作り出す。
相手がこの男でさえなければ、圧倒的なまでに錬の勝利だった。
男の靴底で地面に縫い付けられた錬は、じっと蓮を見ていた。蓮は身じろぎ一つしない。雪が降り積もることさえなすがままになっている。ただ、じっと錬を見ている強張った瞳に、錬は柔らかく微笑んだ。
「取引をしましょう」
「取引?」
「あなたが許せないのは僕達が救われることだ。なら、僕らが独りなら、手を出す理由がない。そうですね」
人は独りでは救われない。
錬はそれを知っていた。
「僕らが二人でいることを許せないというのなら、殺すのは僕にしてください」
「わたしはどちらでも構わぬ。本気にするぞ」
「無論、本気ですとも」
声は静かだった。
「僕らは似た境遇の二人だからこそ意味を持った。一人になれば元に戻る。あなたはそれがお望みでしょう? 僕はこれ以上変わりようがない。けれど蓮は、あなたが望む完成形に近づける可能性を残しています」
「何故、そこまでする?」
蓮の喉は寒さで凍り付いている。それは寒さの所為だと、信じていた。
「あなたとは違う価値観ですが、僕も彼を美しいと思う。損なわせたくない。命を懸けるに値する理由なんて、それで充分でしょう」
「なるほど、道理だ」
男は片手で幼い少年の身体を吊り上げ、刃を構える。
「君とて充分美しいがね」
「あなたのお眼鏡に適わなくて、本当に嬉しいですよ」
獲物に比べてあまりに強大な刃は、易々と子どもの薄い身体を貫いた。
赤を撒き散らす身体が倒れる前に背後で上がった音に、男は自分が失態を犯した事を知った。そう、壊滅的なまでの間違いを犯したのだ。男の価値観では許されないことだったが、もう遅い。
視線を戻した先で血泡を吹く子どもが口元を吊り上げた。
「だから、愚かしい、と、言ったでしょう」
錬は勝負に勝ったのだ。
蓮が膝をついている。自信の命を脅かされても動揺しなかった少年は、他者を害されて平衡感覚を失った。寒さではない蒼白に染まり、歯を打ち鳴らす。
「彼を人間にしたのは、あなた、ですよ」
最大の皮肉で微笑んだ子どもに、男は自らの敗北を認めた。
蓮は崩れ落ちた身体の横に座り込んでいた。どれだけ抑えても血が止まらない。真白い雪に命が流れ込み帰ってこない。
「待って、ラン、おねがい、まって。夜叉丸、夜叉丸、おねがい、たすけて」
うわ言のように言葉が空滑りする。からからと回って、滑り落ちていく言葉に縋りつく。
「おねがい、まって、おねがい。たすけて……り、ん。おねがい、りん、たすけて。あなたのランをたすけて。ごめんなさい、たすけて、おねがい、ごめんなさい、りん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
雪より僅かに温かい血塗れの手が蓮の首筋に回る。力に逆らわず、引かれるがままに冷たい唇が重なった。視界がぶれる。
「君に、僕を、全部、あげる」
悲鳴が聞こえる。誰かが泣いていた。泣いてランを呼んでいる。温かくて優しい導が泣いている。彼女に同調して蓮の涙が流れた。赤子が流す生理的な涙以外の涙を、初めて、流したのだ。泣き方が分からない蓮が流す涙を満足げに受け止めて、錬は一つ息を吐く。
「僕は、凛の、だけど、しようがない。しようがない、子、だから、君に、全部あげる」
記憶が混濁する。蓮のものなのか錬のものなのか把握できない。濁流のような勢いで雪崩れ込む色のついた記憶には、全て同じ少女がいた。長い髪の、彼が愛した小さな少女。
一つ咽て血を吐き、彼は言う。救ってもらえと。
「やめて、僕は救われたくなんてない。まって、ラン、おねがい。死ぬなら僕が。おねがい、いやだ、ラン。まって、やめて、まって……」
「いい、か。僕は、凛の、だから、僕で、埋まった君も、凛のだ。勝手に、死を、受け入れるな。凛の、許可なく、不幸になることも、許さない。死を、追うな。りんの、許可なく、終われると、思うな。いいか、蓮、君の髪の毛一本、凛のものだ!」
風が不自然に波打ち、周囲の雪を吹き上げた。得たばかりの力をコントロールできない。錬の命が薄まるほどに、錬のものが蓮に流れ込んでいく。
「凛に、救ってもらえ。君の生は、これから、で、その、ために、生きる理由が、必要だから…………凛が、泣いてる。ごめん、ごめんね、忘れないでって言ったの、僕なの、に……凛だけ、りんだけ、だった、の、に……」
少年の言葉は途中からうわ言になっていた。遠くを見て伸ばそうとした手は、力を失い雪に落ちる。
「君に救って、もらった、から、だから、り、ん、何も、なに、も……きみに、ぼくは……なんに……も…………だか、ら……りん…………きみ、と…………」
ぽつりと灯が尽きた。
同時に蓮の言葉も閉ざされ、余韻を残した雪だけが舞う。視界を覆う雪の中、じわりじわりと赤が広がっていく。
凍りついた頬の上を、また一つ流れ落ちた雫もやがて凍りつき、赤に届くことはなかった。