十六羽
「総員動くな!」
ひっそりと息づく物の怪道の入り口が急に広がり、色取り取りの装束が駆け込んできた。あっという間に倒れた茶装束を縛り上げ、愛と譲理を抱きかかえて距離を取る。
「紀煉典久! 橘義信主犯によるNYSへのテロ実行容疑、及び殺人未遂及び誘拐、暴行傷害殺人未遂現行犯でお前を逮捕する!」
一口で言い切った男が書類を叩きつけると同時に、超人系が数十人で輪を作る。紀煉はつまらなそうに凛から手を離した。大量に失血した身体は力が入らず地面に崩れ落ちる。
「神鬼月の魂、この紀煉が獲った」
掌サイズの水晶を素早く懐に仕舞うと、紀煉は高く跳躍した。鋭い音をたてて能力者達が後を追い、あっという間に見えなくなる。雪崩れ込んできた警官は、能力者の争いに関われないと分かっている。それぞれ自分の職務を遂行した。
同僚を押しのけて丹羽と武田が駆け出して膝をつく。
「おい、譲理、大丈夫か!?」
「愛、愛、しっかりしなさい!」
二人は二葉の下で呆然としていた。二匹は二葉の足にしがみついている。
「逃げられたの」
「持ってったの」
愛は発声機では拾えない嗚咽を零し続けていた。
「班長、持ってかれた。班長が、つれてかれ、た。駄目だ、もう、取り戻せない」
砕け散る心のように震えた子ども達の言葉に、大人二人も歯を食い縛った。少なくとも、橘の手に落ちて、今までの神鬼月が帰ってくるはずがない。人であることを完全に放棄した少年に戻っているかもしれない。
「大吾、ここを頼みます」
丹羽は離れた位置で倒れる少女に駆け寄る。黒いジーンズは分かりにくいが血でぐっしょりと濡れていた。ネクタイで縛って失血を抑える。周りに散らばった長い髪の毛は持ち主から離れ、痛々しいざんばらになっていた。
「救急隊、早くこっちに!」
驚いたことに凛は意識があった。ひどい失血で気を失ってもおかしくはない。無理矢理起き上がろうとする身体を慌てて止める。右腕が動いていない。折られているのだ。それなのに、彼女は痛みに顔を歪めもしない。ただ、散らばった髪の毛に目元を歪める。
「あの、馬鹿がっ……!」
吐き捨て、ようやく頬の痛みに気がついたのか、少女は品なく舌打ちした。
名を呼ばれる時は碌な事がなかった蓮は、名を呼ばれるのをひどく嫌がった。でも凛が呼んだら好きになれると、少しずつ呼んでもらうことを好んだ。
泣き虫で、凛の前では甘えんぼで。自分がどんなにいじめられても怒らないのに、凛がからかわれるとランドセルを振り回して怒った。凛と喧嘩しても凛の前でしか泣かなかった。手を繋ぐのが大好きで、ロンと呼ぶのも好きだった。
凛だけが好きなものだといつも言っていた。それなのに、凛は違う。誰よりも彼が好きだったけれど、彼だけが好きとは、終ぞ言ってあげられなかった。
今もそうだ。紀煉を殺そうとしたことは後悔していない。躊躇いは微塵もなかった。けれど、父を母を弟を、悲しませてしまったかもしれないことだけは、自分を許せないでいる。殺意は本物だ。憎悪も消えはしない。それでも、もしかしたら、次は躊躇ってしまうかもしれない。愛してくれたこの手を汚すことを恐怖してしまうかも知れない。
彼だけを愛しているとは言えないのに、そう言いたいのかと問われれば、是とも否とも答えられない。そんな自分が、どうしても許せないのだ。
声が聞こえた。どこか霞みがかって遠いが、音は確実に近づいてきた。木の軋みが目の前で止まる。目蓋を開けようと努力して、あまりの重さに愕然とした。目蓋を開くだけで運動場を三周した気分だ。
五歩分離れた場所に足袋が見えた。ゆっくり視線を上げる。穏やかな男がいた。頬は緩やかで目元も綻んでいる。男は柔和な笑顔を浮かべてこちらを見下ろしていた。
「……おかえり、蓮」
穏やかな声で呼ばれ、全身が総毛立つ。嫌悪感と憎悪に吐き気がする。
「ますます百合さんに似てきたね。君は母親に似て相変わらず美しい。わたしを見て歪む瞳もそっくりだ」
男は手を伸ばしたが、激しい音で弾かれた。火花とも雷光ともとれる光で弾かれた手を苦笑して擦った。
「痛いな。夜叉丸、いい加減楽になったらどうだい。ずっと結界を張り続けても疲れるだけだろう」
背後に向けてかけられた声で、誰かに凭れていることに気がついた。
身体に腕が回されている。赤い女物の着物の袖から長い爪が覗き、それに絡まる長く美しい金髪に一瞬意識を奪われた。
自分が纏う黒い装束は何かが乾いたのか、僅かな身動ぎでぱりぱりと音がする。途端身体に走った激痛に悲鳴をあげそうになったが、喉が引き攣っていて吐息しか出なかった。
「主の命なく、御身危険に曝せる筈もなかろうと」
答える声は低い。
「君ほどの妖が主を定めて、こちらとしても驚きでいっぱいだよ。どうだい、君も一緒に私達と来ないだろうか」
くっと耳元で笑い声が洩れた。
「わちきの在り場は主の元でありんで候」
「あはは、相変わらず言葉がてんで滅茶苦茶だ。夜叉丸、考えておいで。わたしは蓮を手放す気など毛頭ない。誰の言葉に重点を置くが得策か、分からぬお前でも無いだろう?」
きちり。
耳元で知った音がした。妖が牙を軋ませる音だ。
「だから、ぬしの元には参らないのでござりんす」
男は笑った。
「蓮、残念ながら今日はもう行かなくては。わたしも色々忙しい身でね。全てが終わったら、また、昔のように暮らそう。大丈夫だよ、もう二度と紀煉に勝手な真似はさせないから。あの時は肝を冷やしたよ。けれど、もう大丈夫だから、ね?」
穏やかで優しげな笑顔だ。
妖の腕に抱かれ、自分の指示で腹に穴を開けさせた相手に向けたのでなければ、とても自然な笑みだ。
男が遠ざかる気配にほっとして、凛は再び意識を手放した。
十二月二十九日。
一同、タイミング同じく瞬きをした。
「かみ、きづ……き……?」
短くなった髪を切り揃えられた少女は、不機嫌に舌打ちした。
「何度も答えないと理解できませんか。そんな貧相な脳なんて捨ててしまえ」
「……間違うことなく神鬼月ですね」
タイミング同じく納得した。
一般人の少女になんて事をと憤る人々の真ん中で、当事者である少女が鬱陶しい僕に触るなとのたまった時の衝撃は凄かった。血塗れで小柄な、ざんばら髪の少女が、それはたいそう偉そうだったからだ。
凛の身体にいるのは蓮だった。引き寄せられる蓮の腕を掴み、体勢を入れ替えたのは凛自身だ。
苛立たしげに短くなった髪を払う。格段に短くなった髪は蓮本来の長さよりは十分長い。苛立たしいのは髪だけではない。いや、本当は髪なんてどうでもよかった。
「おい、どこ行くつもりだ」
しがみついて泣く双りを引き剥がし、泣きそうになっている二人も無視して歩き出した蓮を五十嵐が押さえる。無機質な瞳を予想したが、誰の予想に反して瞳はきつい色を映し出していた。
「凛を、取り返す。そして、この身体をあの人に返す」
五十嵐の手を振り払った衝撃に、自分が耐えられず崩れ落ちた蓮は、握り締めた拳で床を叩きつける。
「おいおい、苦難を共にするうちに淡い想いでも芽生えちまったか?」
場を和まそうと茶化す言葉に、いつもの冷めた視線は返らない。泣きそうに歪んだ瞳に五十嵐は自分が夢でも見ているのかと思った。
あの神鬼月が、泣く?
「僕はこれ以上、何一つ、あの人から奪ってはいけないんだ!」
絞り出すような悲痛な少女の声が響いた。
奪ったものがある。凛から絶対に奪ってはならないものを手に入れた。どれだけ詫びても許されない。一生懸かっても贖えない。
「僕はあの人のものなのに……これ以上、あの人に害なすなんて、できな…………」
「おい、神鬼月!?」
酷く弱った身体は沸騰した感情を支えきれなかった。揺れた視界の中には、慌てて手を伸ばす見知った顔が並ぶ。
その中に、はんなりと笑って佇む少年の姿を見つける、己の作り出した幻想だ。彼の少年が存在するはずがない。彼が存在するのであれば、蓮が存在するはずがないのだから。
自分が壊れているのは自覚していた。他者の体温を受け付けず、凄まじい拒絶反応を起こす子どもが正常であるはずがない。生ある全ての体温を嫌悪した。他者の手は己を害す為にあると「本能」が覚えてしまったのだ。
カウンセリング、セラピー。大人達は壊れた才ある子どもにありとあらゆる手で再生を試みたが、他者の存在自体を害と覚えてしまった子どもを癒すことは終ぞ出来なかった。
かろうじて子どもが傍に置いたのは、長い間封じられていた金色の狐の妖怪だけだった。生者の体温を持たぬ妖しか触れぬ少年は、喜楽の感情全てをなくして淡々と任務をこなした。大人に引けを取らぬ才は、人間性の崩壊という事実さえも追い抜いて、彼の意思とは関係なく地位を確立させた。子どもが持っていた才は、除霊、霊媒系、霊視系。元より素質高かった才は、感情を殺ぎ落とした事でより顕著になっていた。
しかし、何も受け入れなかった少年の傍に、いつからか人間がいるようになった。彼より一歳年上の少年だ。霊視系、使役系、超能力系の能力に優れていた。少年は親へと支払われた多額の金と引き換えに、その身を橘の元へと寄せていた。
橘が「保護」を理由に集めた子どもは蓮だけではなかったのだ。蓮に行われた非道ほどの残虐性はなかったものの、子ども達は皆等しく傷を負っていた。
少年は、壊れた蓮さえ受け入れた怪も避け、いつも一人でいた。誰より効率よく任務をこなしておきながら、誰より興味を示さない。
立花錬。享年十一歳。
あまりに短い生の終焉を蓮にくれた、蓮の奇跡の名だ。




